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心情開拓
心霊を育てる生活原則(80)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

4 復帰歴史に見る生活原理
(1970年1121日)

▲李耀翰先生

【モーセ路程】
十災禍と迫害

 イスラエル民族の前に現れたモーセは、「ヘブルびとの神がわたしたちに現れました。どうか、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください」と言いました。しかし、パロはそれを絶対に許さないのです。そこで杖(つえ)をもって、奇跡をし始めたのです。十災禍です。かえるの異常発生とか、水が血になったとか、あるいはいなごが作物を全部食べてしまったとか。そのうち3日間、イスラエルの村を明るく、エジプトを真っ暗にしました。

 現在の私たちにとって、信じる者の心は、天の光で照らされていますが、信じない者は真っ暗な所に暮らしているのです。また、内的には、イエス様とサタンを現しているのです。

 しまいにはエジプトの長子を殺し、家畜も初めに生まれたものを殺しました。イスラエル民族が、門の両側に羊の血を塗っておくと、災禍が過ぎ越して、エジプトの家へ災難を下し、長子が死にました。それが最後の災禍です。これはモーセのエジプト人殺害の時を、もう一度民族的に蕩減(とうげん)したのです。

 条件が満ちてもサタンが解放しない場合、いつまでもその条件をもって、こちらの目的を果たすのです。イスラエル民族は正月の14日の晩、一日もたすために、パンを食べました。そしてエジプト人が長男を失って悲しんでいる間に、イスラエルの人々は、宝物を盗んでエジプトを出ました。

 こういうのを若者に読ませると、「サタンの家に行ってどろぼうしてもいい」と考えやすいのですが、このイスラエル民族の場合、どろぼうではありません。

 エジプトはあまりにひどく、400年間奴隷扱いして、日給も与えなかったのです。だから、もらうべき価値をもらうのであって、それ以上はもらってはいけないのです。「やる」と言っても、もらってはいけません。汗を流して労働した価値に匹敵するだけ、持っていったのです。

 神様はサタンに対しても、非原理的な摂理は絶対しません。絶対者はできないのです。絶対者は、その人が盲目だとしても、その人のものを持っていかないのです。だから、信じられる神様です。知らない人にも、与えるべきものは与えるのです。いくら神に心配をかけても、以前信仰した分は、祝福してあげるのです。必ず祝福するのです。

 洗礼ヨハネも、相当修行して苦労しました。イエス様と一緒にならなかったけれども、その苦労は認めて、首を切られて死んでも、霊人体だけは救ってやらなければならないのです。その責任をもって、殺しました。そのままほっておけば霊人体が枯れてしまって、生まれないほうがよかったということになるから、すぐ首を切って霊人体だけは救ってやる、というふうにしたのです。

 その十災禍によって、イスラエル民族は出掛けたのですが、もしモーセがエジプト人を殺した時に、自発的に出発していたなら、神に負債にならず、たやすく行けたはずなのです。しかし、十災禍により、パロはそのつど心をかたくなにし、災禍が過ぎれば、イスラエル民族を絶対放さないと決意し、さらにイスラエル民族を圧迫するようになったのです。

 「モーセはどこから現れて、私たちをこんなに苦しめるのか、モーセが黙っていれば、こんなにも苦しめられないのに」と、イスラエル民族はあまりにもモーセを信じませんでした。最後にはみんながぞろぞろと出掛けるので、出掛けたけれども、奇跡という恵みで出発したし、自分たちが自発的にではなく、やむを得ず出発したので、3日間行ったあと、騎兵隊が現れて攻撃をしてきたのです。

 それでイスラエルは、指導者に対して不平を言い始めたのです。紅海の海辺で、「馬の足にみな踏まれて死ぬようになった」と、不平を言ったのです。そしてある班長は、「ここで解散しましょう、ここでうろうろしていたら、みんな殺されます。解散命令をしたらどうか」と言い始めたのです。

 平面的に考えると、ヤハウェも忘れて、「殺されそうだから、適当に分かれて逃げたら生きられるのでは」と考えたのです。その時には、ヤハウェを忘れているのです。雲の柱と火の柱が自分たちをそこまで導いたのに、神を知らずにいたのです。モーセも、「馬の足で踏まれて死ぬよりも、全員海に飛び込もう」と前進命令を出し、自分が真っ先に飛び込んでいれば、自分の信仰で海が分かれたかもしれません。そうなったらよかったのに、その時、じーっと立っていて、ヤハウェの命令によって杖で海を打って、渡ったのです。それでまた負債になったのです。

 いつもヤハウェは自分たちと共にいるのだから、信じて信じて前進すればいいのに、危険な時はヤハウェを忘れて、平面的に自分たちでそこまで歩いてきたように考えているのです。今まで、ヤハウェを中心としてきたにもかかわらず、自分たちだけで逃げ出してきたように考えているのです。ヤハウェと共に、ヤハウェの命令によって来たのに、自分たちだけでここまで来たと思う時があるのです。私たちもそうです。

 自分で生きているように思う時が、しばしばあるのです。自分が統一教会に来た、自分が伝道に行ったと思いがちです。だから、ヤハウェなしで、自分一人で心配したり、研究したり、自分の知恵で判断したりするから、条件に引っ掛かって暗くなったり、悩んだりして、結局、サタンにかまれるのです。私たちもイスラエル民族と、そっくり似ています。だから天使長の後孫に間違いないというのです。いつも負債ばかりになるのです。

 神は、そういう不信な者たちを、モーセ一人の信仰基台をもって、行くのです。イスラエル民族のあとをついてきたエジプトの騎兵隊は全部、水におぼれて死んでしまいました。それを見たとき、喜んでみな踊ったけれども、それまで不平を言っていたのだから、喜ぶ資格がないのです。

 ヤハウェに対し、モーセに対して不平を言った自分たちの性格を顧みれば、その場で喜んで、「敵を倒して私たちは救われた!」と言えないのです。しかし、みなもう踊り始めました。「エジプトの騎兵隊を殺して、自分たちはみな生きた」と言って踊ったのです。私たちも子供のように、うれしい時はうれしがるし、気持ち悪い時は気持ち悪く思いますが、うれしい時には悲しまなくてはいけないのです、本当は。考えてみれば、そうなのです。見えるものしか分からないから、そのものだけ感ずるからです。

 「悲しいこと」は自分の祝福です。「うれしいこと」は、かえって自分に責任がある。もしそういう恵沢を受けて、責任を果たさなかったなら、御破算になるのです。いいというものは災いになりやすいし、悪いというものは祝福になります。そうなっているのです。そうなっているのに、このイスラエル民族は、自分たちの今までの内容を考えずに、救われたという、その場面だけで喜んだのです。

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 次回は、「信仰基台と実体基台」をお届けします。


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