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心情開拓
心霊を育てる生活原則(79)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

4 復帰歴史に見る生活原理
(1970年1121日)

▲李耀翰先生

【モーセ路程】
三大奇跡後の「否定」

 そして、モーセは言葉が下手だというので、アロンとミリアムを代わりに立てて、そして三大奇跡を中心としてエジプトへ向かっていきました。途中でチッポラの割礼の事件があります。「行け」と言ってから、天使がモーセを殺そうとしました。神はなぜ「行け」と言って、また「行くな」と言うのでしょうか。必ずそうしてみるのです。

 なぜかというと、奇跡を中心として行くものだから、一回否定してみるのです。自分がミデヤンにいても、40年の間に、しばしばイスラエル民族の所へ偵察に行ってこなければならなかったのです。自分が使命を果たそうと思えば、そこへ行ってきたりして、奇跡を使わずにやったほうが本当はいいのです。しかし、そのようにはいかなかったのです。私たちも、何か天から協助を受けなければ、なかなか動かないのです。

 モーセもイスラエル民族に対して、相当心配しているのです。しかし、時が来ているにもかかわらず、何も考えていないのです。だから、奇跡をもって行かせたのです。自分が行かなくてはならないのに、天の立場から行かせると、正反対の状況になるのです。自分が行かなくてはならないのです。だから殺そうとされたのです。

 ヤハウェが命令したのを否定しなくてはならないから、「どこへ行くのだ」と殺そうとしたのです。その場において、行こうとする信念を変えずに、妻が自分の子に割礼してよみがえったというのは、自分たちの行く道のために、割礼をして、血を流して覚悟して、自分たちは死んでも行かなくてはならないという、自分たちを中心に出発したという因縁を結んだのです。

 だから、大先生もよく説明されてから、「今度の121日にはみな出るのだよ」と、命令されたのですが、「君たちが行くべきなのか、先生のために行くのか。君たちはなぜ行くのか」と、はっきり聞かれました。そして説明のあとに、「君たちが行かなくてはならないか」と聞かれた時に、「先生の命令で」と言ったならば、これは間違いです。

 先生は教えてあげるのです。「お前たち、こうこうする時が来た。信仰はあるけれども、時を知らずにいる」と。イスラエル民族のためにいつも泣いていながら、時を知らずにいるのです。だから命令しなくてはならないのです。

 なぜ命令しなくてはならないかというと、その人の関心度が高いからです。教えてやらなくてはならないのです。「善悪を知る木の実を食べてもいいですか」と、こう聞けば、「食べるな」と、主管されたはずです。そういうことも、私たちの関心度が高くなれば、神は主管してくださいますが、それは正当な主管ではありません。自分は自律性によって出発しなくてはならないのです。

 それで、その場で打たれなくてはならないのです。それでモーセは、母子協助によって、よみがえって出発するようになったのです。

 割礼の種類は三種類です。死亡の血、サタンの血を聖別する、男子の主管性を復帰する、本然の子女の立場に立つ約束、この三つの意義をもっています。それで、モーセの家族はエジプトへ行くようになりました。否定された立場で、よみがったのです。

 私たち自身には、功労とか、神から恵まれる一つの条件もありませんが、神は歴史的な条件によって、歴史的に成功した人物の立場で、歴史的に成功した信仰基台の基準で、私たちを取り扱っているのです。だから負債になるのです。何も天に主管され得ない、あるいは恵みに参加できない者が、時と時代によって、歴史的なものを、ただで貸してもらっているのです。恵みというのは、まず貸してやることなのです。

 天使長だから、まずやらないと動かないのです。天使長は、もらうのが好きで、ただもらうことだけを好むのです。「給料をいくらくれるか」と、たくさんくれるなら一緒に働き、給料が安ければ、ぐずぐず言うのです。天ではまず与えるのです。モーセも、その立場で死亡の道を踏んで行ったのです。貸してもらったから、一度否定されるのです。

 私たちも相当否定されたでしょう。「原理」を聞いたのち、何か否定される時があるのです。一回やったものを、何日か過ぎると、サーッともっていきます。一回やったものを神はまた集めて、ストップする、「原理」を聞く前よりも、つらい立場に置かれるのです。

 どうも「原理」を聞かなかったほうがよかったなあと思う時があるのです。「原理」を聞くと、こうも、ああもできない、とても中途半端で、どうもこうもならない時があるのです。それは自分の力で、今まで貸してもらって良かった時と同じ態度で、摂理の方向に向かって戦っていけば、自分がやったことになるのです。自分が出発したという立場で、もう一度やるのです。それをしないでおくと、サタンが讒訴(ざんそ)するのです。「なぜあの人に、ただ与えてほっておくのですか」と。

 ヨブがそうだったのです。「ヨブは金持ちになって、子供も大勢祝福したから、喜んでいるのではないですか。その与えたもの全部を、一回奪ってみなさい。財産を奪って、子供を殺してみなさい。そうすれば、ヤハウェをそんなに信ずるか、絶対信じないですよ」。サタンがそう讒訴すれば、神は、「そうか、では命だけ残して、お前にみな任せるからやってみなさい」と言わざるを得ません。それでサタンは、財産も子供も健康も全部奪うのです。しかし、それでもヨブは最後まで変わらなかったのです。祝福をもらった時と、奪われた時と同じだったので、そこでヨブにまた返したのです。

 それと同じく、なぜ神は、私たちに一回与えて打つとか、祝福を与える前に打つのでしょうか。その理由は、アダム・エバが神を不信してサタン側へ渡ったからです。神に恨みをもたせたのです。創造主に恨みをもたせて、サタン側に行ったから、神の方向へ帰るには、一回打たれてみないと行けないのです。その人の決意によって、神が何回も打つこともあります。蘇生期にもあるし、長成期にもあるし、完成期にもあるのです。

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 次回は、「十災禍と迫害」をお届けします。


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