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勝共思想入門 13

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「勝共思想入門」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 同書は、40日研修教材シリーズの一つとして、1990年に発行されました。(一部、編集部が加筆・修正)

光言社・刊

第三章 宗教の発生とその役割について

四 勝共思想の立場

 フォイエルバッハの考えをマルクスは批判し、乗り越えたかのような表現を使ってはいるのですが、実際は全く乗り越えられていないといえます。つまり、フォイエルバッハのいう、宗教の本質は人間の死の克服にあるとする見方に対しての批判が、マルクスにおいて全くなされていないからです。

 死の恐怖は、衣食住の問題、経済的問題から発生するのではなく、もっと根本的なこと、つまり、人間が有限者であるというところから来るとフォイエルバッハは言っているのです。たとえ、マルクスのいう革命によって体制的な矛盾が取り去られたとしても、死の恐怖という宗教的心情は、人間が有限者である限り取り去られることはないと思うのです。マルクスはフォイエルバッハを越えてはいないといえましょう。

 さて、より重要なことは、この「宗教的心情」とはいったい何かということであるはずです。

 この問題の解決がなければ、宗教の本質の理解はあり得ないからです。既に述べたように、フォイエルバッハは「死の恐怖」といい、マルクスは「社会的生産物」といったのです。これに対し、勝共思想は「善を求める本心の作用」とするのです。人間にとって普遍的な心の作用、それによりだれもが善を求め続けているということです。これは何人といえども否定できるものではありません。しかし、現実には、善の真の姿を見ることができないので、時間・空間を超えたところにこの善の真の姿、真の実体、真の主体を求める、ここに宗教の発生があるとするのです。この心情は、死への恐怖からくるものより、もっと根源的であり、ましてや、社会的生産物などであろうはずがないのです。これが神を信仰するようになる真の動機であって、苦しいときの神頼みではないのです。

 人間が善を求め続ける限り、当然永遠にそのようにあり続けるでしょうが、神を迎えようとする人間の心は不滅なのです。宗教の歴史は、常に輝かしいもののみではありませんでした。しかし、マルクスのいうように宗教が支配階級の支配のための道具であったというように、軽薄にとらえるべきものではないのです。

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 次回は、「理性的人間観-近世の考え方」をお届けします。

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