シリーズ・「宗教」を読み解く 243
キリスト教と日本㉒
キリシタン時代の最後の日本人司祭、マンショ小西

ナビゲーター:石丸 志信

 1616年の末に、ペトロ・カスイ岐部がマカオからインドに向けて船出した時、ミゲル・ミノエス(美濃のミゲル)とマンショ小西が同じ志を持って同行していた。

 この二人もペトロ岐部と同様、インドのゴアからローマを目指す。ペトロ岐部が陸路、エルサレム巡礼を果たしている間に、彼らは航路をたどって先にポルトガルのリスボンに到着した。

▲リスボン

 マンショ小西は、キリシタン大名小西行長の孫に当たる。行長の娘マリアが対馬藩主・宗義智に嫁いで授かった子だといわれる。
 義智はマリアとの結婚を機に洗礼を受けたので、対馬でもキリスト教が広まったことがあった。

 しかし、関ケ原の合戦で西軍に付き敗戦の将となった小西行長が捕らえられ斬首されたため、東軍に付いた宗義智は幕府の目を気にしてマリアを離縁し九州に追放した。
 マリアは幼いマンショを連れて長崎に逃れ、イエズス会の保護を受けることになった。その後、マンショは、セミナリオで教育を受け、尊い志を育んでいった。

 リスボンに渡ったマンショ小西は、ここで先にローマで司祭に叙階されたペトロ岐部と再会する。
 迫害下にある日本宣教に旅立つ先輩を見送った後、彼もまた、ローマでイエズス会に入会し、修練の後司祭に叙階された。27歳であった。

▲ローマ

 1632年にマニラから日本に戻り、マンショは数少ない司祭たちと共に京阪地方で潜伏活動を続けた。
 1635年、早くから日本に潜伏して、マンショ小西とも共に活動していたディオゴ結城了雪神父が捕らえられ、翌年大阪で殉教した。仙台藩で活動していたペトロ岐部も1639年に江戸で殉教した。残る司祭はマンショ小西一人となった。

 キリシタンに対する取り締まりが一層厳しくなる中、彼はなお生き延びて、信徒たちを励まし続けた。だが、ついに1644年ごろ、殉教したと思われる。
 彼の最後の数年間の活動報告は残されておらず、その様子を知る者はいない。数年後、最後の日本人司祭が殉教したとの風の便りがローマに届けられている。


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