シリーズ・「宗教」を読み解く 242
キリスト教と日本㉑
1639年夏、ペトロ・カスイ岐部逝く

ナビゲーター:石丸 志信

 1630年の夏に坊津(ぼうのつ)に上陸したペトロ岐部は、すぐさま長崎に向かった。
 しばらくその地で活動した後、彼は上長の命を受けてキリスト教徒にとってはまだ安全と思われた仙台藩の水沢に移った。
 ペトロ岐部はそこを拠点に東北地方に点在していたキリスト教共同体を巡回訪問しながら、霊的な恩恵を与えるための働きをしていた。

 この間、長崎をはじめ九州地方でのキリシタン弾圧は、一層厳しさを増していった。
 1932年、33年には潜伏活動を続けていた宣教師らの大多数が捕らえられ、処刑された。

 その中には、天正遣欧使節としてローマまで赴いた中浦ジュリアンがいた。穴吊(づ)りにされ、肉体的苦痛に加えて精神的にも追い詰める過酷な拷問を加えられ、棄教を迫られたが、彼の心は変わらなかった。

 ペトロ岐部が国外に追放されたその時、中浦ジュリアンはあえて日本に残り、以来20年近い歳月を迫害下の日本で奉仕してきた末の殉教だった。

▲井上筑後守政重の像(左)とペトロ岐部の立像(大分県国東市)

 一方、中浦ジュリアンと同じ時に捕らえられ拷問を受けたクリストヴァン・フェレイラ神父が棄教した。
 当時、日本におけるイエズス会の責任者であった彼の棄教は大きな痛手となった。棄教したフェレイラは沢野忠庵を名乗り、江戸幕府の意向に合わせてキリシタンを説得し棄教させる役割を担っていった。

 師であり同志であった宣教師二人を、一人は殉教で、一人は棄教で失ったペトロ岐部はその知らせを東北で聞きながらも、残された者の使命を果たすため一層慎重に活動を続けた。

 しかし、1637年に起こった島原の乱以降、キリシタンに対する取り締まりと弾圧が強化され、遂にペトロ岐部も終わりの時を迎えた。

 伴天連(バテレン/神父)の居場所を密告した者には高い褒賞金が払われると聞いて、役人に通報した者があった。
 仙台藩内で捕縛されたペトロ岐部は直ちに江戸に送られ厳しい審問を受けた後、小伝馬町の牢に拘留され過酷な拷問が加えられ棄教を迫られた。しかし、彼の信仰は最後まで揺らぐことはなかった。

▲小伝馬町牢屋敷跡

▲小伝馬町牢屋敷跡 十思(じっし)公園

 この時、背教者フェレイラが彼を説得するために呼び出されたが、ペトロ岐部は毅然(きぜん)としてかつての上司に向かって信仰に立ち返って共に殉教するよう迫ったと言い伝えられている。

 日本の地に信仰の根を絶やしてはならないと、砂漠を越え、波濤(はとう)を越えてエルサレム、ローマを歩き、宣教師となって戻ってきた一級の国際人ペトロ岐部は、9年間の潜伏活動の末、凄絶(せいぜつ)な拷問に耐え抜き、その魂を天に帰したのは1639年夏の事であった。


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