2022.11.07 22:00
「性解放理論」を超えて(58)
「統一思想」すなわち「神主義」「頭翼思想」によって生きるのか、神の言(ことば)を否定する思想を選択するのか…。
「『性解放理論』を超えて」を毎週月曜日(予定)にお届けします。
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大谷明史・著
五 ポスト構造主義を超えて
(四)ジャック・ラカン
(5)性的差異とファルス
ラカンによれば、性的差異の起源と発達は言語の領域内にあり、セクシュアリティーは生物学的な性とは関係ないのです。エリザベス・ライトは次のように言います。
ラカンの場合、これらの公式は、発話する存在が精神レベルでどのようにセクシュアリティーを経験するかに関わっている。それは生物的な性とは関係ないし、……生物学的な男性が女性の側に、生物学的な女性が男性の側に、自分を刻印することができるということである。もちろん選択できるとはいっても、主体の無意識の歴史なるものから来るさまざまな要因に押しつけられた「強制的な」ものにはなるだろうが、発話をする存在のひとりひとりが、どちらの側にでも自分を刻印することを選択できるのである(※84)。
ラカンによれば、性別化とは、われわれが男性とか女性という存在のあり方を「選択する」プロセスであり、われわれは社会的な場で性をもった主体としての位置を獲得するのだと言います。主体が象徴界(シンボルの世界)に入ることによって、性が振り分けられ、象徴的なジェンダーが授けられると言うのです。
ファルス(phallus)とは、ペニスそのものではないが、西欧の文化的幻想や想像の中でペニスの役割を果たしてきたものであり、男性の象徴とされます。ラカンによれば、男女の差異とは、ファルス機能がそれぞれ異なった作用の仕方をすることであると言います。エリザベス・ライトは、ラカンの性別化の理論を次のように説明しています。
ラカンの性別化の説明は、特定の文化に限られたものではない。これらの公式で明らかにされているのは、ファルス機能、つまり去勢の機能──象徴界から要求される犠牲──が、男女によって異なった作用の仕方をするということ、女性は男性が失う必要のない何かを失っているというわけでないということ、またどちらの性もすべてをもつ、あるいはすべてのものになることはできないということである(※85)。
ラカンの性別化の理論について、ジュディス・バトラー(Judith Butler)は次のように説明しています。
《ファルス》──すなわち、一見して男に設定されている主体位置を反映し、保証するもの──は、女である。……他方、男は《ファルス》を「もって」おり、けっして《ファルス》で「ある」わけではないと言われている(※86)。
これは難解な表現ですが、男はペニスを持ちながら、必ずしもファルスでなく、女はペニスを持たないがファルスであり得ると言うのです。
ラカンは、いったい何が性的差異をつくり出しているかと問い、セクシュアリティーは生物学的な性とは関係がなく、性的差異の起源と発達は言語の領域内にあると主張しました。ラカンによれば、性別化とは、われわれが男性とか女性という存在のあり方を「選択」するプロセスです。つまり主体が象徴界に入ることによって、性が振り分けられるというのです。
ラカンはまた、男性の象徴であるファルスの機能は男女両方に現れるが、その機能が男女で異なった作用の仕方をすると言います。フロイトにおいては、女性をペニスの欠如、ペニスを羨望する者として捉え、性的アイデンティティの形成において重要な役割を果たすのはペニスであるとしましたが、ラカンにおいて、性的アイデンティティの差異は、ファルス機能の差異にあるとしたのです。ファルスの機能について、メアリ・エヴァンス(Mary Evans)は「能動的な力(※87)」、ジェーン・ギャロップ(Jane Gallop)は「生命の流れのイメージ(※88)」、と説明しています。
男はファルスを持ちながらファルスでないということは、形状(身体)においてファルスを持つが、性相(精神)においては、必ずしもファルスでないということであり、女がファルスを持たないがファルスであるということは、形状においてファルスを持たないが、性相においてはファルスであり得るということになります。
これは男性にも、女性的な性格の人がいて、女性にも、男性的な性格の人がいるということを言っているのです。しかし、それによって男女の性差がないということにはなりません。比喩的に言えば、声楽において、男性のボーカルにも低音のバスと高音のテノールがあり、女性のボーカルにも、低音のアルトと高音のソプラノがあるように、女性的な性格に見える男性(テノールに相当)においても、それも男性的な性格であり、男性的な性格に見える女性(アルトに相当)においても、それも女性的な性格なのです。
「統一思想」から見れば、心身共に男は男らしく、女は女らしく造られているのです。それは支配・被支配の関係ではなく、真(まこと)の夫婦の愛を築くための二性なのです。男性の愛と女性の愛が調和することによって、美しい夫婦の愛が実現されるのです。
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※84 エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』(37-38)
※85 同上(25)
※86 ジュディス・バトラー、竹村和子訳『ジェンダー・トラブル』青土社、1999(94-95)
※87 メアリ・エヴァンス、奥田暁あき子訳『現代フェミニスト思想入門』明石書店、1998(75)
※88 ジェーン・ギャロップ『ラカンを読む』(210-11)
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次回は、「ジャック・ラカン⑥~性的関係/愛のための言語」をお届けします。