2022.11.01 17:00
シリーズ・「宗教」を読み解く 240
キリスト教と日本⑲
短期間で司祭への叙階が許されたペトロ・カスイ岐部
ナビゲーター:石丸 志信
1620年秋にローマに到着したペトロ・カスイ岐部は、異例の措置で通常なら数年かかるところ、ひと月の間で司祭への叙階が許された。
イエズス会司祭やローマの高位聖職者らが、彼が司祭として必要なキリスト教全般の知識と、聖職者としての徳を備え、十分な資格を有していると認めたからである。
11月15日の日曜日に、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ教会の小聖堂において彼の司祭叙階式が行われた。
また5日後には、イグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルらが創設したイエズス会への入会も許された。
この時にペトロ岐部がラテン語で記した「身上書」が現在もローマのイエズス会文書館に保管されている。それには力強い筆致でこう書かれている。
「1.私の名はペトロ・カスイ。父ロマノ岐部、母マリア波多の子、当年三十三歳。生まれは日本、豊後の国浦辺。3.入会の動機は、私の自由な決心である。すでに十四年前に、自分から進んでそのような願いを立てた。5.神の賜物に関しては、数えきれないほど特別に私にあたえ給うたと感じている。というのは、数多くの労苦と危険から解放されて、いまようやくイエズス会の修練者に加えてもらったからである。6.自分の召命に満足しており、また自分の救霊および同胞のそれのために進歩したいという大きな希望を持っている」(松永伍一著『ペトロ岐部』中央公論社 昭和59年 118ページ)
33歳のペトロ岐部はイエズス会士としてまず2年間の修練期間を過ごすことになる。聖アンドレア修練院に入った彼は、修道生活の基礎を養うと共に、倫理神学、実践神学を学んでいる。
1622年3月12日、ペトロ岐部は、サン・ピエトロ大聖堂で挙行されたイグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルの列聖式に参列した。
彼は、先駆者の輝かしい式典にどのような思いで臨んだのだろうか。祖国からの知らせは迫害が厳しくなる状況を伝えるものだったが、彼の心はかえって燃え上がったことだろう。
日本人司祭ペトロ岐部には聖フランシスコ・ザビエルの遺志を継ぎ同胞の救霊のために自らをささげる日が近づいていた。
6月に入り、彼は修練期間をあと半年残してローマからリスボンに移った。そこで、残りの修練期間を全うして誓願を立て、ようやく一人前のイエズス会士となった。
宣教師としての任を受け、いよいよインドへの出帆を待つばかりとなった。
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