2022.10.17 22:00
「性解放理論」を超えて(55)
「統一思想」すなわち「神主義」「頭翼思想」によって生きるのか、神の言(ことば)を否定する思想を選択するのか…。
「『性解放理論』を超えて」を毎週月曜日(予定)にお届けします。
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大谷明史・著
五 ポスト構造主義を超えて
(四)ジャック・ラカン
(2)鏡像段階と自我の形成
ラカンは1930年頃からフロイトに関心を抱き、フロイトの研究を進めました。そして1936年に鏡像段階の理論を発表しました。
幼児は手足の感覚を統一することができず、ばらばらに分裂したままで自他の区別も分からないが、鏡を見て自己像を得ます。鏡の助けを得て「自我」(エゴ)を手に入れるのです。しかし、それは鏡像であって、イメージにすぎません。しかもその自我は鏡の中、つまり自分の外にあります。結局、「自我」とは私ではなくて、自己の外にある鏡に映った自己です。そして私(主体)と鏡像とは決して一対一に対応するようなものでなく、私と自己像との間には絶え間ない葛藤があるのです。鏡像に由来する自我は、最初は輝いていますが、やがてその輝きを失います。ジェーン・ギャロップは次のように言います。
鏡像段階は「目の眩(くら)むような急斜面」を登るための第一歩にすぎない。この段階でなら、主体は登り始めたばかりだから、「すべり戻ってしまう」恐怖を感じることもなく、先のことを「心楽しく思う」ことができる。自我は形成され始めたばかりで、まだ危険にさらされるような持続性の組織体をもつまでに至っていない。鏡像段階は、避けられない不安が始まる前の、歓喜に満ちたたまゆらの瞬間なのである。したがって、鏡像段階が悲劇の頂点である。宿命的な栄光にかがやく一瞬であり、楽園喪失の一瞬である(※77)。
そしてその後、「自我は最終的には堅固になり、精神を締めつける煩わしい苦悩の鎧(よろい)となる(※78)」と言います。
ラカンによれば、自我とは私ではなくて、自己の外にある鏡に映った自己です。そして私と自己像(鏡像)との間には、絶え間ない葛藤があると言うのです。
しかし私はあくまで私であって、鏡像が私を形成しているわけではありません。鏡像は私の二次的、象徴的な像にすぎないのです。また私と鏡像が葛藤しているのではありません。鏡像の下で、私が成長していくのです。ラカンは歓喜に満ちた鏡像段階はやがて楽園喪失の悲劇に遭遇すると言います。これは母親に抱かれていた幼児がやがて乳離れしていく成長過程と見るべきです。
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※77 ジェーン・ギャロップ『ラカンを読む』(107)
※78 同上(109)
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次回は、「ジャック・ラカン③~現実界、想像界、象徴界」をお届けします。