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43とも倶楽部誕生物語 3
戦う保守紙「世界日報」との出合い

櫻井 晴信

 今話題のユニークな読書会、「43とも倶楽部」。本シリーズでは、「43とも倶楽部」がどのようにしてつくられてきたのか、その誕生の物語をお届けします。

 私は昭和35年、長野の農家の5人兄弟の末っ子として生まれました。
 長野県は標高が高く平地が少ないため、米作には適さず、昔から養蚕(ようさん)が盛んでした。
 父が病弱だったため、桑取り、野菜作り、炭焼き、林業の手伝いを子供の頃からしていました。
 勉強は嫌いではありませんでしたが、はっきりした目標もなかったので、それほど熱心にはしませんでした。

 1982年、東京の大学を出て、就職したのは世界日報という新聞社です。
 編集もやりたかったのですが、配属されたのは販売局でしたので、都内の販売店を転々としながら、新聞の拡張、配達、集金に明け暮れていました。

 1980年代といえば、ソ連の全盛期で、東欧、アフリカ、中南米で次々と社会主義国家が誕生し、日本も社会党、共産党が強く、新聞もほとんどがリベラルでした。
 唯一産経新聞が保守の新聞として戦っていたので、世界日報のように朝日新聞や毎日新聞と真っ向から戦う新聞はとても喜ばれました。

 世界日報は、特派員の数が多く、通常は1ページくらいしかなかった国際面が、2、3ページもあったため、当時、人気コメンテーターだった竹村健一氏(故人)もテレビでたびたび取り上げてくれました。


▲1985年12月3日付「世界日報」(画像をタップすると拡大してご覧になれます)

 スマホでニュースが見られる今とは比べ物になりませんが、当時は、ニュースといえば新聞とテレビでした。ですから、意識の高いかたは、23紙の新聞を読み比べていました。特にリベラルの代表である朝日新聞と、保守の代表である産経新聞を読み比べている人が多かったのです。

 そういうかたがたの中には、産経新聞でも書けないマスコミ批判をバンバン書く世界日報を気に入ってくれて、熱心な読者となったかたがたも少なくなかったのです。

 しかし、朝・毎・読・産経・日経の5大紙、そして東京新聞がひしめく東京で、部数を伸ばすのは簡単ではありませんでした。(続く)