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預言 6
14年という時間

 アプリで読む光言社書籍シリーズ、「小説『預言』」を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。

金辰明・著

(光言社・小説『預言』より)

6 14年という時間

 しかし、最も大きな失望は常に、感謝している人間から来る。智敏(ジミン)はある日、院長から青天の霹靂(へきれき)ともいうべき話を聞かされた。

 「何だって? 智絢(ジヒョン)を養子に送るだって?」

 「そうよ」

 既に腹を決めているかのように、院長の声は冷静だった。

 「だめです!」

 智敏は狂ったように絶叫したが、院長の意思は固かった。

 「ここでは、あなたの妹をちゃんと育てられないわ。アメリカに行けば、望むことは何でもできるし、才能があれば芸術家にだってなれる。勉強が得意なら、大学教授にだってなれるわ」

 院長はキャビネットの奥深くにしまってあった黒いノートを取り出し、智敏に開いて見せた。

 「アメリカに行った子どもたちを見なさい。この子らはみんなうまくいってる。大学に進学して一人前のアメリカ市民になれたの。でも孤児院にこのまま残っていたら、三食のご飯を食べることさえ難しいわ」

 「だめです。智絢は俺と一緒にいなきゃいけないんです」

 「知ってる。あなたの気持ちはよく分かってる。あなたのお父さんがそのように智絢のことを頼んだことも、よく分かってる。でもあなたのお父さんは、こういうことを知らなかったのよ。智絢にこんな素晴らしいチャンスが訪れることが分かっていれば、絶対にそうは言わなかったと思うわ」

 智敏は頑(かたく)なに首を振り続けたが、院長もまた、頑固さでは負けていなかった。

 1日が過ぎ、2日が過ぎ、1カ月が過ぎるにつれ、智敏の抵抗は少しずつ弱まっていった。

 ある日、彼は誰もいない院長室にこっそり忍び込み、キャビネットの中に保管された二冊のノートを手に取って開いた。

 アメリカへ養子に行った子どもたちの名前と幼い頃の写真の横に、走り書きのような書体で現在の状況が書かれていた。

 仮名(かめい)であったり、事実でない可能性もあったが、名前と住所、職業までもが書き込まれていた。ノートに記録された子どもたちは全員、大学在学中か、もしくは卒業となっていた。

 自分でも、智絢の将来のためにはアメリカへ送ったほうがいいことは分かっていた。しかし、父との約束を破ってまで妹を送るのが果たして正しいことなのか、判断できなかった。

 「父さん」

 智敏の喉の奥から、嗚咽(おえつ)の混じった声が漏れた。

 「どうしたらいいんだろう?」

 夜空にきらめく星が何か答えてくれているようだったが、智敏にはそれが何か分からず、東の空が薄明るくなるまで、じっと空を見上げていた。

 翌朝、智敏は院長室を訪ねた。

 「一つ約束してくれますか?」

 院長は決然とした智敏の態度に、不安げな表情で問い返した。

 「何を?」

 「智絢がもしアメリカに行って、向こうで大学に進学できなかったら、また韓国に連れて帰ってくるってことを」

 思いがけない話を聞いて、院長はすぐに返事をすることができず、智敏の顔に視線を送ったままじっと考えた。

 子どもを連れて行く養父母に大学進学を約束させるなど、前例がないばかりか、そもそも尋ねることすらできない話だった。

 それは、喉の渇きで今にも死にそうな人が、水を恵んでくれようとする通りがかりの人に対し、クリスタルのグラスに注いでくれ、と言うのと同じことだった。

 ひとたび、養父母が子どもの手を引いて孤児院の門を出てしまえば、その瞬間から子どもとの関係はすべて切れてしまう。養父母が自分の国に連れて行って飢えさせようが、満腹にさせようが、こちらが干渉できることではなかった。

 どんなに華やかな美辞麗句で取り繕っても、結局のところ、養子に出される子どもは孤児であり、連れて行く養父母が自分の思いどおりに育てることになるのだ。

 「ああ、それは……」

 院長は何かを言いかけたが、智敏の燃えさかるまなざしに口を開くのをためらい、彼の提案を真剣に検討することにした。年は幼くても、妹を思う智敏の心は、どこかそら恐ろしいものがあった。

 今まで数多くの孤児を見てきたが、智敏のような子どもは初めてだった。

 何よりも今、智敏は自分を善と悪の分かれ道に立たせている。

 なぜか今、智敏に嘘(うそ)をついたり、その場限りのことを言ってごまかしたりすれば、永遠に自分が悪人になってしまうような気がした。また、恐ろしい報復を受けるような予感もして、院長は事実をありのままに打ち明けた。

 「正直に言うと、ここを出た後は、私たちのほうから連絡してはいけないの。向こうから連絡してこなければ、こちらから連絡する方法もないわ。そういう法律であり、規則なの。でも……」

 「……」

 「今回だけは私が話をしてみるわ。正直に全部話しましょう。智絢にはお兄さんがいて、彼は妹が大学に入ると思っているって」

 「兄がいるって言ったら、その人たちは智絢を連れて行かないかもしれないよ?」

 「それは天にお任せしましょう。なぜか、そうしなきゃいけない気がするわ」

 「ごめんなさい、院長先生」

 「いいのよ、私もそうしたくなったんだから」

 いざ院長にこう言われ、智敏はまたしてもひどく心配になってきた。

 自分が余計なことを言ったせいで、智絢の将来をめちゃくちゃにしてしまうのではないかとふさぎ込むと、院長が慰めてくれた。

 「階級の低い軍人は安心できないけれど、幸いなことに、この方は地位も高いし、智絢を大切に育てて大学まで送ってくれるわよ」

 しばらくの間、目玉をぐりぐりさせながら考え込んでいた智敏が、唐突に尋ねた。

 「その人は軍人なんですか?」

 「そうよ、すごく階級の高い軍人よ。情報分野の専門家って言っていたかしら」

 「情報分野? それってスパイ? 院長先生、そのアメリカ人、俺も見ることはできませんか?」

 「あなたが?」

 「はい」

 院長は深いため息をついて言った。

 「そうね。こんなことは今までなかったけど、特別にそうしましょう。でも絶対に出てきちゃだめよ。泣くのもだめだし、どんな音も立てちゃだめよ。あなたが興奮する姿を見たら、彼らは絶対に智絢を連れて行かないわ」

 「はい、俺のことは遠い親戚の家にいるとでも……いや、親戚がいるとなったら、あとで取り戻しに来られた場合に厄介だと思われるかもしれないから……俺は遠い所にある別の孤児院にいるけど、智絢が大学……、大学に入学したら、手紙でも一通書いてほしいと伝えてください。智絢には知らせずに……大学に入学したとだけ……俺じゃなくて、院長先生宛てに」

 院長は小部屋に続くドアを指さした。

 「あの鍵穴から見ていなさい」

 智絢を迎えに来たアメリカ人夫妻のことを、智敏はすっかり気に入った。

 男性のほうは壮健にして快活であり、彼と共に地球のあちこちを飛び回っていると言いながら明るく笑う妻のほうは、穏やかで親切だった。

 韓国に随分前から滞在していて、韓国語もかなり流暢(りゅうちょう)な夫妻は、アメリカに帰ったら退役するので、韓国の子どもを養子として育てるつもりだと話した。

 あらかじめ院長と多くのことを話していたのか、夫妻は院長室に呼ばれた三人の子どもを見るなり、一人ひとりの名前を呼びながら、うれしそうに彼らを両腕に抱いた。

 智敏は幼いながらも、これまで親戚の家をたらい回しにされ、ありとあらゆる表情を見てきた上に、孤児院での肩身の狭い生活が長かったため、彼らが良い人であり、智絢を大切に育ててくれるだろうことがすぐに分かった。

 一旦こう思うと、智敏の胸は高鳴り始めた。彼らが智絢ではなく、ほかの子どものほうを気に入ったらどうしようという思いから、心の中で院長に向けて大声を張り上げた。

 “院長先生、智絢が一番じゃないですか。智絢にだけ会わせればいいのに、なんでほかの子にも会わせるんですか!”

 しかし次の瞬間、智敏は胸をなで下ろした。

 三人の子どもが退室するや、夫妻は智敏の望むとおり、智絢を選んだのだ。院長は口元に明るい笑みを浮かべながらも、どこかぎこちない表情をアメリカ人夫妻に向け、口を開いた。

 「あの……それでですね」

 「何か?」

 「智絢には両親も親戚もいませんが……」

 院長の口から、果たしてどんな穏やかでない話が出てくるのか、夫妻は多少不安げな面持ちで、院長の次の言葉を待った。

 「まだ幼い兄が一人おりまして、ここから遠く離れた孤児院にいます。それでその子が……」

 院長は注意深く夫妻の顔色をうかがいながら、言葉をつないだ。

 「何せ、世界にたった二人の兄妹であるのに加えて、亡くなる時に父親が、くれぐれも妹のことを頼む、と言ったそうなのです。ですから、妹が素晴らしい養父母に出会ってアメリカに行くと伝えたところ、喜びながらも……」

 「……」

 「智絢が大学に入った暁には、『大学入学』というたった一言でいいから、教えてほしいと言っていたのです。それが自分の望むすべてであると」

 「オー・マイ・ゴッド!」

 夫の口から驚嘆の声が漏れた。

 「まさか、子どもの口からそんな言葉が出るとは……。この際、お兄さんも一緒に連れて行くのはどうだい、ハニー?」

 妻もやはり感動した様子であったが、二人を育てる余裕はないと答えながら、院長に尋ねた。

 「その子は何歳なんですか?」

 「11歳くらいだと思います」

 妻は自らに誓うかのように答えた。

 「必ず伝えてください。何があっても、絶対に大学に入学させると」

 「ありがとうございます」

 「私が院長先生に手紙を送ります」

 夫も、やるせないような表情で付け加えた。

 「大学の入学式に招待することもできますよ。もちろん、ジヒョンの意見をまず聞いてみなければなりませんがね」

 夫妻は翌日の午前中に智絢を迎えに来ると言って、喜びの表情を浮かべながら院長室を後にした。

 養父母となる夫妻が院長室を去ってから、智敏は、ふっと大きく息を吐き出した。

 同時に、目からは涙がすうっと滑り落ちた。智敏は袖で涙をぬぐい、あの世からこの光景を見守っているであろう父に向かって、声もなく尋ねた。

 “父さん、これでいいんだよね?”

 院長は晴れやかな笑みを隠すこともなく、隣の部屋のドアを開けると、智敏の目に涙の跡を見つけて驚いた。

 「智敏、どうしたの? 全部うまくいったじゃないの」

 「院長先生、ありがとうございます。あの人たちは良い人です。間違いなく智絢を大切に育ててくれると思います。俺、人を見る目はあるんです」

 院長は智敏を抱きしめた。

 「ごめんね、智敏。あなたたち兄妹が離れ離れにならないように、私が最後まで面倒を見てあげたいのは山々なんだけど、それができなくて。でも智絢は、ここよりも向こうにいるほうが、間違いなくうまくいくわ。智絢が大学に入ったら、あなたも招待するって言っていたの、聞いていたでしょう?」

 「はい……いや、だ、だめです!」

 思いがけない智敏の反応に、院長は驚き、智敏の顔をまじまじと見つめた。

 「智敏、ついさっきまで喜んでいたじゃない。良い方たちだって。智絢を大切に育ててくれるだろうって。そうね、気持ちが行ったり来たりしてるのね。私にはあなたの気持ちがよく分かるわ。どんなに胸が痛むことでしょう。当然だわ」

 「いえ、そうじゃなくて、俺を招待したらだめなんです」

 「どういうこと?」

 「智絢はもうここを忘れて生きるべきなんです。自分が孤児だったこともすっかり忘れ、あの人たちの娘になって、幸せに生きなきゃいけないんです。もちろん、俺のことも忘れて」

 「どうして?」

 「分かりませんか? 智絢はこれから幸せに生きていくけど、俺はどうなるか分かりません。俺が成功するまでは、自分の姿を見せたくないんです。智絢は全部忘れて、幸せにならなきゃならないんです」

 次の日の朝、智敏は朝食も取らずに孤児院を飛び出した。

 もう妹に二度と会えないのだから、かける言葉もたくさんあったし、何よりも、力の限り、抱きしめたかった。

 しかし、もしアメリカ人夫妻がそんな姿を目撃したら、養子縁組を取りやめるかもしれないと、にわかに怖くなったのだ。

 智敏をあちこち捜したものの、見つけられないまま孤児院に戻ってきた院長は、机の上にあった『基礎英文法』という本がなくなっていることに気がついた。

 14年前、幼い兄妹はこうして離別した。

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 次回は、「遅延」をお届けします。


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