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預言 5
出迎え

 アプリで読む光言社書籍シリーズ、「小説『預言』」を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。

金辰明・著

(光言社・小説『預言』より)

5 出迎え

 金浦(キムポ)空港の到着フロア、「出口」と書かれたゲートの前で、智敏(ジミン)は通路の両側を見渡せる真ん中に陣取り、仁王立ちになった。

 まだ出迎え客は一人もなく、到着ロビーはがらんとしていた。飛行機が到着するまで座っていてもよかったが、智敏は通路をきょろきょろと見回していた。

 「智絢(ジヒョン)!」

 智敏は小さな声でつぶやき、広い到着ロビーに誰もいないことを確認してから、ありったけの大声を上げた。

 「智絢! 俺の妹、智絢!」

 実に14年ぶりの叫びだった。

 喉が張り裂けるほどの声は、やがて湿り気を帯びてしぼんでいった。

 こらえていた泣き声が、とうとう抑えることのできない絶叫の入り混じった慟哭(どうこく)に変わった。ひとしきり肩を揺らした後、どうにか落ち着きを取り戻した彼の脳裏には、遠い昔の記憶が甦(よみがえ)っていた。

 「智敏、起きたのか?」

 それはあまりにも奇妙な感じのする顔、まるで見知らぬ他人のような顔だった。この世で一番身近な顔に浮かんだ、見慣れぬほほ笑みが、幼い智敏を心底、震え上がらせた。

 「父さん! どうしたの、その顔」

 「何のことだ?」

 作り笑い。それは明らかに作り笑いだった。幼い智敏は果てしない恐怖に襲われた。

 「怖い!」

 次の瞬間、もう一人の姿が目に映った。

 父の後ろで、静かに横になっている人。この世で一番近く、温かく、安らげる人。

 ……母だった。

 明らかにおかしな様子で近づいてくる父の顔を避けるかのように、智敏は母を呼んだ。

 「母さん、寝てるの?」

 母は答えなかった。呼べば、いつでも答えてくれる母。どんなに遠くにいても、呼びさえすればいつも傍(そば)に来てくれた母。

 その母が奇妙なことに、最も恐ろしいこの瞬間に、答えてくれないのだ。

 智敏は目をこすった。寝起きのせいか、母の顔がどことなく違って見えた。

 「見るな」

 智敏の視線が自分の背後に向かうのを見て取った父は、大きな手で智敏の目を覆った。

 「父さん、母さんはどうしちゃったの? 何、あの母さんの顔!」

 父の手を振り払って見つめた母の顔からは、いつもの温かさが失われていた。

 その代わり、どこか冷たく青白い気配だけが、ひんやりと漂っている。長い間、病を患っていた母が、とうとう息を引き取ったのかもしれないという不吉な想像を振り払うかのように、智敏は鋭く叫んだ。

 「父さん、母さんはどうしちゃったのかって聞いてるだろ!」

 しかし、智敏はそれ以上、声を出せなかった。太い指が彼の首をぎゅっと絞めつけたからだ。

 「う、ううっ! ゲホッ!」

 父の手は震えていた。しかし、智敏がどんなに振り払おうとしても、10本の指はますます強く首に食い込んできた。

 「ゲホッ! ゲホッ!」

 か細い智敏の首は、頑丈な男の太い指の間から断末魔の叫びを上げるばかりで、そこから逃れることはできなかった。

 「う、う、うわあん!」

 声にならず漏れていく智敏の荒い息が部屋全体を覆う。突然、もう一つの泣き声が聞こえた。

 その瞬間、父の手からすっと力が抜けていった。眠りから覚めて泣き出した幼い妹が、いつの間にか父の手に抱かれていた。

 「智敏!」

 智敏は声を出すこともできずに、何とかうなずいた。

 「すまない」

 父の声が、蚊の羽音のように耳の奥深く入り込んだ。智敏はすべてを理解した。

 「母さん」

 「うっ、ううっ」

 智敏のうめくような叫びに続き、父のすすり泣きが部屋に充満した。

 「か、母さん……」

 智敏は母が死んだことを悟った。長い闘病生活の果てに、とうとう母は天国に行ってしまったのだ。

 そしてあらゆる方面からの借金の取り立てに疲れ果てた父は、今まさに、自分を殺そうとしたのだった。

 いつも優しくて温かい父だったが、いつだったか、夜更けに母を抱きしめながら「すまない。智敏と智絢を連れてすぐ行くからな」と言っていた光景が頭に浮かんだ。

 父は静かに指を差し出した。

 「智敏、父さんと一つ、約束してくれないか?」

 「……」

 「何があっても、智絢と絶対に離れはしないと」

 「……分かったよ、父さん。必ずそうする。約束するよ」

 父は静かに智絢を胸に抱いて寝かしつけた後、ドアを開けて出て行った。

 それが智敏の見た、父の最後の姿だった。

 10歳の智敏は6歳の妹、智絢と共に親戚の家を転々として、やがて孤児院へと移された。

 親戚の家では一様に、借金を踏み倒された挙げ句に子どもまで引き取ることになったという愚痴から始まり、しまいには、失踪するなら二人とも殺してから行けばいいのに、なぜ子どもを残して私たちに苦労をかけるんだという恨み節が聞こえてきた。

 そんな時、智敏は両手で妹の耳を塞ぎ、涙をこらえるためにありったけの力を振り絞った。

 しかし、智敏は父を恨まなかった。

 昔はにこやかに笑いながら鯛焼(たいや)きを買って来てくれ、童話を読んでくれた優しい父親だった。

 母の病院代を稼ごうと、会社勤めを辞めて様々な事業に手を出した頃から、だんだん表情が暗くなっていき、疲れた顔で家に帰ってくると、言葉もなく横になって寝入ってしまうことが多くなったのだ。

 それでも、いびりが激しくなるばかりの親戚よりは、自分を捨てて出て行った父が恋しかった。涙が流れ出るとき、智敏はいつも、父と交わした約束を必ず守ろうと、拳を握りしめた。

 地獄のような親戚の家から逃れ、孤児院に移った初日、兄妹は頑として離れようとせず、職員が夜通し性教育までして、この幼い二人の子どもを説得しなければならなかった。

 「智絢は女の子同士でいるほうが安全なのよ。大きい子たちが、あなたの寝ている間に智絢に触ったりしたらどうするの?」

 「俺は寝ません。徹夜して智絢を守ります」

 「誰だって、ついうとうとしてしまうものなの。だから最初から、男の子は女の子の部屋に入れないようにするのが一番安全なのよ」

 智敏はただひたすら、妹を守らねばならないとの執念で生きた。

 日が経(た)つにつれ、この執念は野獣の本能となった。

 年上か年下かに関係なく、誰であれ智絢に些細(ささい)な悪口でも言おうものなら、むごいほどに智敏に殴られた。さらには、智絢と一緒に遊ばないというだけで、ひどい目に遭わされた。

 智敏のこの理不尽な行動は、孤児院の子どもたちだけでなく、職員にも向けられ、院長でさえも驚き、言葉を失うほどだった。

 しかし、このような兄の行き過ぎた保護にもかかわらず、智絢は両親を恋しがってよく泣いた。幼い智敏の胸もまたそのたびに、裂けんばかりに痛むのだった。

 “父さん、俺、全部知ってるんだ!”

 智敏はまだ年こそ幼かったが、あの日、なぜ父が自分の首を絞めたのか、また、なぜその途中で力が抜けてしまったのかを、十分に理解していた。

 また、自分が何をしなければならないのかも、分かり過ぎるくらいに分かっていた。それは妹を守り、妹を喜ばせ、妹のために自分を犠牲にすることだった。

 しかし、智絢が両親に会いたいといって泣く時だけは、どうにもできず途方に暮れた。

 ありったけの力で妹をなだめ、抱きしめ、両親の真似(まね)をしてみた。しかし、幼い妹は最初こそきゃっきゃと笑っても、一度泣き始めると何をしても泣きやまなかった。

 最後は智敏も、智絢を抱きしめて一緒に泣くしかなかった。すると今度は、智絢が兄を慰めた。

 このように、兄妹は見えない所に隠れ、夜空に光る星を見つめながら、泣いたり泣きやんだりを繰り返すのだった。

 「あなたたち、また泣いていたのね。智絢、おいで」

 しかし、孤児院での生活は智敏と智絢兄妹にとって、憂鬱で悲しいことばかりではなかった。

 貧しく困窮していたが、使命感に燃える院長が真心を尽くして子どもたちの面倒を見てくれたので、悪口と恨み言ばかりが毎晩繰り返される親戚の家よりも、はるかに居心地が良かった。

 特に慈愛に満ちた院長が、ある程度は母親のいない心の隙間を埋めてくれたため、兄妹はやがてほかの子どもたちと同じく、院長を「お母さん」と呼ぶようにもなった。

 この温かい院長は時折、智絢を抱いて一緒に寝てくれたりもした。そんな時智敏は、将来お金を稼いだら、院長の望むとおり、日当たりの良いこぎれいな孤児院を必ず建ててあげるんだと、心の中で何度も誓うのだった。

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 次回は、「14年という時間」をお届けします。


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