2022.10.09 17:00
第4部 東洋に信仰を伝えた人々
⑤マザー・テレサ
岡野 献一
『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)
貧しい人々への献身
マザー・テレサ(1910-97)は18歳で単身インドに渡り、最も貧しい人々に救いの手を差し伸べ、献身的に尽くした修道女です。
「聖フランチェスコのように生きたい」
テレサの本名はアグネス・ゴンジャ・ボアジュ。「マザー・テレサ」とは修道女としての呼び名です。
さて、アグネスは東欧マケドニアのスコピエという町に生まれます。
両親は熱心なカトリック信者で、母のドラナは幼い子供たちを連れて毎日のように教会に通いました。母は奉仕精神にあふれた女性で、困った人を放っておけず、あるときに、病気で苦しむ身寄りのない老女を家に引き取って、快復するまで面倒をみるといった女性でした。後にテレサは「神を愛すること、隣人を愛することを母から教えられた」と語っています。
ある日アグネスは気管支炎にかかります。以来、病気がちとなった彼女は読書に熱中。読書を通して運命的な出会いをします。それがアシジ(アッシジ)の聖フランチェスコです。フランチェスコはすべてを捨てて修道士になり、神の愛を説きながら清貧の生活をし、修道会を創設。アグネスは「自分も聖フランチェスコのように貧しい人々のために生きたい」と切望するようになるのです。
そんなとき、彼女はキリスト教宣教師がインドに渡って奉仕活動をしていることを知ります。当時のインド、特にカルカッタは「世界最悪の居住環境の街」といわれ、飢餓と貧困にあえぐ人々であふれかえっていました。それを知った彼女は、修道女になってインドへ行き、最も貧しい人々に奉仕することを決心するのです。
アグネスは18歳でアイルランドのロレット修道院に入会。念願のインドに渡ります。そしてテレサの修道名を受け、見習い修道女となります。2年後、①自分のものを持たないと誓う「清貧の誓願」②すべてをキリストにささげる「貞潔の誓願」③神と目上の者に素直に従う「従順の誓願」――など三つの誓いを立て、正式な修道女となります。
第2次世界大戦後、イギリスから独立したインドとパキスタンとの間で、宗教の違いから印パ独立戦争が勃発。そこに飢饉(ききん)が襲い、カルカッタに難民があふれました。しかし高い塀で街と隔離された修道院内は平穏です。外で、難民同士が宗教の違いから憎悪し、飢餓で多くの人が死んでいく惨状を見たテレサは、修道院の外で、貧しい人に奉仕することを決意します。
貧しい人々への献身を誓願
やがてローマ法王の許可を得たテレサは、スラム街に繰り出し、奉仕活動を始めます。テレサ38歳の時でした。「聖フランチェスコのようになりたい」という少女時代からの彼女の念願が、天に聞き届けられたのです。
彼女は、貧しさの故に教育を受けられない子供たちに無料で学問を教えました。やがて協力者が現れ、数か月後にテレサの修道会(奉仕団)は12人になります。
さらに協力者が増えると、教育だけでなく、食糧の無料配給や病人や孤児の世話。テレサの活動は急速に拡大されました。1950年、テレサの修道会はローマ法王から承認され「神の愛の宣教者会」と名付けられます。彼女の修道会の正式な修道女となるには、清貧・貞潔・従順の三つの誓願のほか、貧しい人に心から献身するという「第4の誓願」を立てます。その修道会の総長であるテレサは「マザー・テレサ」と呼ばれるようになるのです。
さらにテレサは、路上に捨てられた人が人間らしい最期を迎えるための「死を待つ人の家」を設立。また「孤児の家」やハンセン病の施設などをつくりました。
1979年、テレサは貧しい人々の名においてノーベル平和賞を受賞しました。
奉仕に生きたテレサは、次のように語ります。「世界のどこかに、誰からも忘れられた孤独な人がいる。もしそのような人を見つけたら、どうぞ手を差し伸べてください。そして優しく接してあげてください。あなたの家族に対してするように」と。
テレサの生涯は、真の父母様の伝統精神「父母の心情、僕の体」をまさに具現化した歩みでした。
---
次回は、「内村鑑三」をお届けします。