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第4部 東洋に信仰を伝えた人々
④サンダー・シング

(光言社『FAXニュース』通巻1026号[2005625日号]「キリスト教信仰偉人伝 李相軒先生のメッセージに登場した人々」より)

岡野 献一

 『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)

インドの聖者

 東洋及び西洋の使徒と呼ばれたインドの聖者サンダー・シング(18891929)。彼はパウロのような回心をし、しばしば神秘的体験をもち、霊感あふれる説教によって多くの人々を魅了しました。

▲サンダー・シング

シーク教徒からキリスト教徒へ

 サンダーは北インドのパチアラ州ランパールの裕福な地主の末子として生まれます。母は熱心なシーク教徒で、母は息子をシーク教のために生涯をささげるサズー(献身聖別された教師)にしようと、熱心に教育しました。ところが地域的な関係性から、彼はキリスト教主義の学校で学ぶことになったのです。

 シーク教の優越を信じていた彼は、キリスト教に反感をもち、聖書を焼き、伝道を妨害し、キリスト教を撲滅しようとします。やがて14歳の時、母が亡くなります。彼は母の意志を継いでサズーになろうと努力しますが、心の平安は得られず、悩みの淵に立つのでした。

 18歳の時です。それまで忌み嫌ってきた聖書に何が書いてあるのか、秘かに読んでみると心惹かれるものがあり、彼の心はかえって乱れてしまいます。自己の矛盾を感じて追い詰められた彼は、神に真剣に祈り求め、もし人生の解答が得られなければ、翌朝、一番列車に身を投じて死のうと決意します。早朝3時、冷水をかぶり「神よ、あなたがおられるなら、この哀れな私に真理を示し、平安をお与えください」と真剣に祈り求めるのでした。

 なかなか答えが得られず、なおも祈り求めると、前方に不思議な光を見ます。サンダーは火事でも起こったのかと思い、戸を開け外を見ますが何ごともありません。そこで神が何かを示されるのではと目を凝らしていると、イエス様が現れ、「おまえはなぜ私を迫害するのか。私はイエスである」という声を聞くのです。

 彼は自らの無知と迫害の非を懺悔(ざんげ)して、イエス様に許しを乞います。するとどうでしょう。それまでの苦悩が嘘のように消え去り、キリストの愛が大波のように彼の心に押し寄せて占領してしまうのです。

 歓喜に満たされた彼は父のところへ飛んで行き、自分がキリストの弟子になったことを告げます。父は「おまえは、おととい聖書を焼いたばかりじゃないか。夢でも見たのだろう、早く休みなさい」と答えたといいます。

 この神秘体験の後、彼は家族、氏族および地域の人々からすさまじい迫害を受けます。それでも心を変えない彼は、遂に家を追い出されるのです。自分のような反逆児さえも許し導いてくださったキリストのために、殉教者としての生涯を歩もうと、彼は立ち上がります。

命懸けの伝道 多くが回心

 命懸けの伝道を始めた彼は、母の遺言を思い出します。そこでクリスチャンとしてのサズーになろうと宗教服を身にまとい、パウロのように伝道旅行を開始しました。ヒマラヤ山麓を行き巡り、ネパール、ミャンマーに足を運びます。彼は激しい迫害の中で、血を流す拷問を度々受けました。しかしそれでも感謝し、敵をも許す彼の姿に、多くの者が感銘を受けて回心していくのです。

 瞬く間に彼の名声は世界各地に伝えられ、彼の行くところ、2万、3万の大伝道集会となります。再臨期に当たる1919年には、日本にも来ました。東京、横浜、京都、神戸で集会をもち、帰途は中国で伝道集会をしました。

 サンダーは真の父母様の精神と通ずる切迫感をもって伝道しました。彼は訴えます。

 「おお、目を覚まして見よ。いかに多くの霊魂が日々君たちの周囲において滅びつつあるかを。彼らを救うことは君の責任ではないか。キリストの兵士となれ。為すべき業は直ちに為せ!」

 1920年、彼は英国の招きを受けて渡英。ヨーロッパを経てアメリカでも伝道集会をもちます。彼は度々入神状態となり、霊界や天使と語り合い、聖書の内的意味を説きました。彼は地上生活の重要性を訴え、常に祈りの生活をすることを奨めています。1929年、彼はチベットに向かって伝道に出発したまま、消息不明となります。

 彼は述べます。「愛をもって互いに仕えよう。自己否定なくして神に仕えることは不可能であり…自分を愛するように私たちの同胞を愛し仕えよう」と。彼は再臨期において、主の道を直くした人物でした。

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 次回は、「マザー・テレサ」をお届けします。