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第4部 東洋に信仰を伝えた人々
③ハドソン・テーラー

(光言社『FAXニュース』通巻1017号[2005528日号]「キリスト教信仰偉人伝 李相軒先生のメッセージに登場した人々」より)

岡野 献一

 『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)

困難乗り越え中国で伝道

 広大な土地と世界最大の人口を誇る中国。その中国に神のみ言を伝えるため、英国・中国伝道会の最初の宣教師として中国に渡ったのがハドソン・テーラー(18321905)です。中国に神のみ言を伝えずして、世界の救いの完成はあり得ないと思えるほどの人口を抱える中国。彼の残した信仰の証しは、今もなお、宣教師たちにゆるぎない神への確信と、希望を与えています。

▲ハドソン・テーラー

実家は集会所 教会発展に尽力

 ハドソン・テーラーは信仰篤い家庭に生まれました。父は教会役員を務め、母は牧師の娘として、夫婦共に力を合わせながら、信徒伝道のために家を集会所として開放し、教会発展のために尽力していました。

 両親は初子である彼を神のみ旨にささげようと、祈りをもって育てました。しかし彼は虚弱体質だったため、学校教育を十分に受けられず、14歳までにわずか2年しか通学できない状況でした。それでも両親は失望せず、母が学問を教え、父も4歳にしてヘブライ語を教えるなど、多忙な中にあっても精誠を尽くして育てました。

 しかし、このように親の愛情と祈りをもって育てられた彼でさえ、やがて友人や不信者との交わりによって金銭に心ひかれ、懐疑的書物の影響を受け、父母の感化から離れて世俗の風潮に染まってしまうのです。

 母はゆれ動く息子を心配し、日々涙の祈りをささげるのでした。

 回心の奇跡は彼が15歳のときに、母が遠出の期間中に起こります。

 彼は父の書斎で、手当たり次第に本を読んでいました。母は遠くにいる息子が気掛かりで、意を決して部屋にこもり、時間が経つのも忘れて激しい祈祷をささげたのです。その同じ時刻、「キリストの成就せるみ業」という言葉が彼の心をひきつけます。そこから救いに対する確信が、再び彼の心をとらえたのです。

孤独の絶頂で協力者現れる

 やがて彼はロンドンで医学や中国語を学ぶ中、中国の国情を知るようになります。かつてザビエルが中国伝道を目指しながらも、病に倒れて挫折。その後イエズス会とフランシスコ会の宣教会同士の確執によって中国宣教の道がふさがれ、1717年に禁教令が出されてしまうのです。

 膨大な人口を抱える中国(清)に伝道の道がふさがれているのを知った彼は、宣教を決意します。

 中国に上陸したとき、彼はまだ21歳でした。ときに中国では長髪族の乱が起こり、戦乱の最中、彼はすべてを神に委ね、困難な環境の中にあって伝道を開始します。

 彼は飢えと寒さ、危険にさらされつつ、外国人居留地から出て現地人と共に住み、中国語を話し、中国服を着て、同じ生活をするのです。まさに「ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである」(コリント人への第一の手紙920節)というパウロの言葉の実践です。

 彼は伝道のためなら、ありとあらゆる事を成し、一心不乱に取り組むのです。拷問や死に瀕するときも、彼は決して落胆しませんでした。しかし彼のそのような姿は、中国に居住する外国人の間でさえ、奇異の目で見られ、不評をかうのです。その孤独の絶頂のときに、パーカーという協力者が現れ、伝道の道が開かれたのです。

 やがて彼は、中国の各省各州に伝道所を設けるという明確な目標を立てて祈り始めます。しかし、簡単には実りはもたらされません。元々病弱だった彼は病に倒れ、英国に帰って静養しなければならなくなります。まさに産みの苦しみです。しかし中国伝道に執念を燃やす彼は、再び中国に移り、祈り続けるのです。その祈りはやがて、「中国奥地宣教協会」の設立となって結実します。

 やがて献身者が現れ、多くの献金が集まるようになります。彼が地上を去るころには、各省各州で伝道を開始。世界から千人以上の宣教師が集まり、中国人伝道師6千人余、信徒数67千人を数えるまでになっていました。

 摂理の中心国家である韓日米の宣教は言うまでもなく、中国伝道はその人口から考えて、世界福地化のためには避けることのできない課題です。キリスト教が一体化できず使命を果たせなかったことが中国の禁教令につながったという歴史的な蕩減を晴らすため、彼は精誠を尽くしたのだといえます。彼の不屈の精神は、今もなお宣教師に希望の光を投げかけています。

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 次回は、「サンダー・シング」をお届けします。