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第4部 東洋に信仰を伝えた人々
②ウィリアム・ケアリ

(光言社『FAXニュース』通巻1007号[2005430日号]「キリスト教信仰偉人伝 李相軒先生のメッセージに登場した人々」より)

岡野 献一

 『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)

近世海外伝道の父

 東洋に福音を伝えるためにインドに渡ったイギリス最初の宣教師ウィリアム・ケアリ(17611834)。彼は語学の天才で、ベンガル語訳聖書をはじめ、24種類の国語、地方語に聖書を翻訳し、インドに福音の種をまきました。彼は「近世海外伝道の父」と呼ばれています。

▲ウィリアム・ケアリ(ウィキペディアより)

語学の才利用し 東洋に福音伝える

 大航海時代以降、ヨーロッパの列強国家が植民地争奪戦を繰り広げながら、アメリカ大陸やアフリカへと進出していきましたが、アジアにもポルトガルが進出。まずインドを植民地化し、それに続いてオランダ、イギリスがインドに乗り込んでいきました。

 長い間、ヨーロッパ人は植民地化した東洋の諸国民を、自分たちと同じ権利をもち、キリストの福音にあずかるべき人間であるとは見なさずに、まるで家畜に対するかのように振る舞った時代がありました。植民地化時代の列強国の人々のもつ「心の幕屋」は狭かったのです。

 そのような時代圏にあって、本心に目覚め、東洋に福音を伝えることが神の願いであると切実に感じる宣教師の一団が生まれました。その代表者がケアリです。

 彼はイギリスのノーザンプトンの貧家に生まれます。父は職工でしたが、向学心があり、やがて村の校長に選ばれます。幼いケアリは貧しくはありましたが、学問と接する環境にありました。彼は幼少より語学の才を現し、12歳でラテン語に通じます。しかし、彼の心を引き付けたのはまず農業で、彼は農業を手掛けて失敗します。

 24歳で彼は靴職人となり、福音を学ぶようになります。語学の才をもつ彼は靴を作りながら勉学、ラテン語以外にギリシャ語、ヘブライ語、イタリア語、フランス語、オランダ語などをマスターするのです。彼は語学に熱中するあまり皮を断ち損ねることもありました。

 28歳のときです。彼の篤い信仰と勤勉さに感動した篤志家が経済的支援を申し出たのです。こうして彼は多くの語学を究めつつ、キャプテン・クックの『航海記』を読んで、伝道未開拓地に心動かされ、東洋に福音を伝えることが自分の使命だと確信していくのです。

妻の錯乱、息子の死 乗り越え、辞典編纂

 1793年、彼は数人の同志と家族を引き連れ、インド伝道に出発します。

 しかしその出発は、彼の苦難の路程の始まりでもありました。ベンガル上陸後、早々水害で全財産を失い、まず貧困にあえぐようになります。

 彼は工場で働いて生活の糧を得つつ伝道するのです。

 そのようなとき、妻と息子が重い赤痢(せきり)にかかります。不慣れな地で、貧困にあえぎ、病床に伏し、ついに妻は精神に異常を来してしまいます。

 それは、その後13年にわたってケアリの十字架となります。さらには語学の天分を現していた息子を亡くしてしまうのです。

 心ない人々は、発狂した妻に石を投げ、亡くなった息子のために墓を掘ろうともしません。彼は日記に「この日を忘れたい。しかし神はここにいます」と記しています。苦難の中にあっても彼は絶対信仰を貫くのでした。

 いつの時代でも開拓を担う者には十字架がつきまといます。彼の宣教も同じでした。しかし、それでも彼はあきらめず精誠を尽くし、宣教地を愛するのです。そして後から来る者のために「宣教の道標」を残そうと考え、聖書のベンガル語訳を目指します。彼は無類の勤勉さをもって、ベンガル語などの現地語を勉強するのです。

 彼は妻の精神錯乱という重荷を背負いつつも、努力を怠らず、1801年に偉業を達成します。

 また、ベンガル語のみならず、サンスクリット語、マラチ語、パンジャビ語、テルグ語などもマスターして多くの辞典を編纂。さらにブータンの語集を出版します。彼の文典は、当時、夫が死ぬと妻も火葬の火中に身を投じて殉死(じゅんし)する、インドの悪習廃止に貢献したといわれます。

 再臨時代が近づく1819世紀。語学の天才が現れ、聖書が翻訳されたのは天の導きでした。こうして聖書は多くの言語に訳され、再臨主が活動する世界舞台が整えられたのです。彼らの苦労で、時代的恵沢を受けていることを忘れてはなりません。私たちも伝道に苦労するとき、彼らに負けない精誠を尽くすべきでしょう。

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 次回は、「ハドソン・テーラー」をお届けします。