2022.09.11 17:00
第4部 東洋に信仰を伝えた人々
①フランシスコ・ザビエル
岡野 献一
『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)
日本にキリスト教を伝える
東洋の使徒フランシスコ・ザビエル(1506-1552)。彼は1549年8月15日、キリスト教宣教のために来日します。彼の生きた時代は、ルターの宗教改革によってヨーロッパのキリスト教が大きく変転していました。
名誉をすべて捨てキリストに仕える
彼は1506年4月7日、フランスとスペインの間にあった小国ナバラ王国の最高重鎮(じゅうちん)の末息子として生まれます。6歳のとき、フランスとスペインの戦争が起こり、そして父が病死。フランスに加担したナバラはやがてスペインに敗れ降伏します。家の没落と国の非運を目撃した彼は軍人の道を捨て、学問を志し、19歳で名門パリ大学に入学。優秀な成績で卒業した彼には学者としての道が開かれるようになります。しかし1528年以来寄宿舎で起居を共にしていたイグナチオ・デ・ロヨラの感化を受け、1533年、27歳のとき、すべての名誉をかなぐり捨ててキリストに仕える道を選び取ったのでした。
翌年8月15日、ロヨラと共にザビエルは修道会「イエズス会」を創設。同会はカトリックの信仰を立て直そうとする「反宗教改革(対抗改革)」の推進力となった修道会で、清貧・貞潔・聖地巡礼を基本理念に、「キリストの兵士として、法王の命ならば地の果てまでも従う」という献身の決意をもった修道会でした。
1535年11月、ザビエルはフランスとスペインの間で起こった戦争のためにパリを後にしますが、パリ城門を出るとき、彼の手元に貴族証明書が届けられます。それさえあれば立身出世に困らないといわれる証明書でしたが、彼はそれを破り捨て、「この証明書は無用の長物」と言って、修道会の清貧の道を選択したのです。
1537年、彼は聖地巡礼の旅の途上、インド人を背負って歩く夢を見ます。その夢を契機に、異国にキリストを伝えることが自分の天命であると思い、その機会が来れば即座に従おうと、神に誓いを立てていました。
すると1540年3月14日、彼は、ポルトガル国王から「法王の代理大使としてインド布教をせよ」との命を受けたのです。彼は「イエス様がインドで働く機会をくださった」と言って、喜んでその命に従っていきます。
ヤジロウに接し日本宣教を決意
彼は行く船中やインドで、法王の特別大使として用意された部屋に住むことなく、貧しい人と寝食を共にし、いつしか人々は、アベルの正道を歩んだ彼を尊敬し「神様のような神父」と呼ぶようになります。彼は一心に伝道し、3年間で2万人をクリスチャンにします。
1545年、彼は熱心に祈っていると、「もっと東に行かねば」という声を聞きます。それは再臨主が世界摂理を出発するちょうど400年前のことです。ザビエルは「はい、神様。もし船がなければ、いかだを組んででも行きます」と答えたといいます。以来、彼は東の地を目指して、ニューギニアへ宣教の旅をするのです。そんな彼の元にヤジロウという日本人が訪ねてくるのです。
ヤジロウは思わぬ事で人を殺し、逃亡中、薩摩に来航していたマラッカ行きのポルトガル船に乗ります。船中、ヤジロウはポルトガル語を勉強し、聖書に触れます。やがてザビエルと会ってクリスチャンになるのです。聖書の翻訳をするヤジロウの姿を見て、ザビエルは「これほど洗練された東洋人を今まで見たことがない」と感動し、日本人ならキリスト教を理解するに違いないと、宣教の決意をするのです。するとザビエルは、イエス様が「そうだよ。聖母マリアの取り次ぎだから日本を大切にしないといけないよ」と言われたように思ったといいます。
ついにザビエルは1549年4月15日、インドのゴアを発ち、同年8月15日、ちょうど15年前のイエズス会創設と同じ日に、日本に到着。8月15日は「聖母マリア昇天」の祝日でもあり、不思議なめぐり合わせでした。
ザビエルがまいた種は短期日で実を結び、50万人のクリスチャンが生まれます。しかし彼の死後約40年を経た1597年2月5日、長崎二十六聖人殉教が起こって日本はキリシタン迫害時代に入ります。
二十六聖人殉教から400年を経た今日、日本は再臨主の摂理を担う国となりました。その背景には天の導き、ザビエルとキリシタンの苦労があったことを忘れてはなりません。
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次回は、「ウィリアム・ケアリ」をお届けします。