2022.09.27 17:00
シリーズ・「宗教」を読み解く 235
キリスト教と日本⑭
大村潜伏キリスト教徒の殉教
ナビゲーター:石丸 志信
放虎原(ほうこばる)殉教地に顕彰碑が建立されたのは、日本205福者殉教者の列福式から100周年に当たる1967年12月15日のことだった。
以後、毎年多くの巡礼者がここを訪れ、年に一度は「大村殉教祭」が盛大に挙行されている、とのことだ。
顕彰碑の傍らの看板にそう記してある。
その隣に、もう一つ「郡(こおり)潜伏キリシタン殉教群像の由来」が掲げられていた。
放虎原で処刑されたキリシタンは日本205福者殉教者に含まれた者たちばかりではなかった。その後も何度かここでキリシタンが処刑されている。
最後とも言える大量の処刑が1658年8月5日になされた。
時はすでに潜伏時代に入っていた。日本には聖職者が一人もいなくなり、キリシタンに対する弾圧は厳しさを増していった。信徒たちは、ひそかに信仰を保ち継承する組織を作り、この状況をしのいでいた。
しかし、時に密告によって潜伏キリシタンの存在が発覚し大量検挙につながることがあった。これは、潜伏組織を崩壊に導く「崩れ」と呼ばれた。
1658年大村藩で起こったのが郡崩れだった。その時捕らえられたキリシタンは608人。大村藩の牢には収まりきらず、長崎、佐賀、平戸、島原にも分散して投獄された。608人の内411人が斬罪、99人が放免、牢内病死78人、永牢20人の処分が科された。
同年8月5日、大村牢の131人が放虎原で斬首され殉教した。同日、他の牢でも処刑が執行されている。永牢に処せられた20人のうち十代で入牢し、亡くなるまで60年以上も牢獄生活を続けた者が数人いた。
日本最初のキリシタン大名になった大村純忠を生んだ大村領であったが、純忠の嫡子喜前が棄教、キリシタン弾圧に転じた。
幕藩体制の中、大村藩の名誉を保つため「郡崩れ」以降、弾圧政策は一層徹底されていく。
棄教したキリシタンは神仏に帰依し、キリスト教を棄教する旨を誓う「起請文(きしょうもん)」を差し出し、生涯監視対象とされた。
寺請制度の下、仏教徒としての生活が強いられた。かつて領内に数万人を数えたキリシタンの信仰は一世紀の後には全て消え去っていった。
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