2022.09.26 22:00
「性解放理論」を超えて(52)
「統一思想」すなわち「神主義」「頭翼思想」によって生きるのか、神の言(ことば)を否定する思想を選択するのか…。
「『性解放理論』を超えて」を毎週月曜日(予定)にお届けします。
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大谷明史・著
五 ポスト構造主義を超えて
(三)ジャック・デリダ
(10)愛と死
デリダは、「[脱構築は]“愛なしには決してはじまらない”……脱構築は愛である(※63)」と言います。
それについて、ニコラス・ロイルは、デリダにとっての愛は、正にドラッグであり、「デリダのテキストが示唆するのは、魔に取り憑(つ)かれた心の論理、魔に取り憑かれた愛の、“魔を愛する者”の仕事(作品)の論理である(※64)」と言います。そして、「私たちは、ただ、死すべき者だけを愛するし、私たちが愛する者の可死性[死すべき定め]は、愛にとって偶然的で外在的な何かなのではなく、むしろ、その条件なのだ(※65)」と、デリダを説明しています。
デリダにとって、「愛は、死が私たちを分かつまで存在する」のであり、デリダは、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」を書き直して、「私は喪に服する、それ故に私は存在する」と言います。死のゆえに愛があり、死のゆえにわれわれの存在があると言うのです(※66)。
デリダは、脱構築は愛だと言いますが、その愛は「魔に取り憑かれた愛」です。それは正に悪魔的な愛であり、真(まこと)の愛ではあり得ません。
デリダによれば、死は愛の条件ですが、そうではありません。人間は本来、愛の完成とともに、蝶(ちょう)がさなぎから脱皮するように、古くなった肉身を捨てて霊界で永存するのであって、死によって愛が成り立つのではないのです。
デリダは、「愛は、死が私たちを分かつまで存在する」、「私は喪に服する、それ故に私は存在する」と言いますが、「愛は、死を超えて存在する」、「私は愛する、それ故に私は存在する」と言うべきです。
(11)言葉は暴力
デリダは、原エクリチュールの「原暴力」、または「根源的暴力」に言及し、言葉は暴力であると言います。これは「初めに言葉があった。言葉は暴力であった」ということです。デリダは言います。「言説が根源的に暴力的なら、言説はみずからに暴力を加えるほかはなく、自己を否定することによって自己を確立するほかはない(※67)」。デリダはさらに「言語はみずからのうちに戦いを認め、これを実行することによって際限なく正義のほうへむかっていくほかはない(※68)」と言います。これは正に、言と言の闘争によって発展すると言う言語的な闘争的弁証法にほかなりません。
高橋哲哉が指摘しているように、言語には、「外から(あるいは後から)偶然的な補足物として本体に付加されるものが、本体の内奥に侵入し、そこに棲(す)みつき、それに取って代わってしまうという運動(※69)」があるのであり、デリダはこれを代補の論理と言います。これは事物(正)の中には、事物を否定するもの(反)が生じて、その正と反の対立、闘争によって事物は発展すると言う、唯物弁証法と発想が同じです。
デリダはマルクス主義の誤りを指摘しながらも、マルクスの精神を生かし続けることに意味があるとして、彼の著書、『マルクスの亡霊』において、「新しいインターナショナル」を呼びかけました。デリダは、正にポスト構造主義のマルクス主義者なのです。
マルクス主義は、事物は闘争によって発展すると主張し、発展のためには暴力が必要であり、人類歴史は支配階級と被支配階級との階級闘争の歴史であると言います。デリダによれば、「初めに言葉があった。言葉は暴力であった」のであり、哲学の歴史は「形而上学(けいじじょうがく)的言説と脱構築的言説との戦い(※70)」であったのです。
デリダは、言葉は暴力であると言いますが、そうではありません。言葉は愛を実現するためのものです。すなわち「初めに言葉があった。言葉は愛であった」のです。そして哲学の歴史は、形而上学的言説と脱構築的言説との戦いではなくて、神を中心とした善なる言葉と、サタンを中心とした悪なる言葉の戦いであったのです。
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※63 ニコラス・ロイル『ジャック・デリダ』(266)
※64 同上(268)
※65 同上(299)
※66 同上(300)
※67 高橋哲哉『デリダ』(136)
※68 同上(140)
※69 同上(86)
※70 同上(137)
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次回は、「ジャック・デリダ⑨~同一性の否定/メシアニズム」をお届けします。