2022.08.07 17:00
第3部 中世期に活躍した人々
③聖ドミニコ
岡野 献一
『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)
み言に立って祈りと実践
アシジ(アッシジ)のフランチェスコが神の召命を受け、修道会を創設したのと同時期、スペイン出身の裸足の聖者ドミニコ(1171-1221)が説教者兄弟会を立ち上げ、ドミニコ修道会としてその後の歴史に大きな影響を与えました。
南仏で異端・分派問題の深刻さ知る
法王庁が世俗権力を抑え、法王政治が絶頂期を迎えていた法王インノケンティウス3世(在位1198-1216)の時代は、霊的に見れば信仰の混迷期に入っていました。町や田舎の至る所で「よりよく福音に生きよう」と称してさまざまなグループが生まれ、ある者は高い霊性をもっていましたが、中には托鉢(たくはつ)か、強盗か、区別がつかない行動をとる者もおり、司教がほとほと手を焼くといった状況でした。
そのような状況下にあって、さらに霊的問題を深刻化させたのが異端(分派)です。特に、南フランスを中心にカタリ派と呼ばれるグループが大きな基盤をもっていました。このカタリ派の問題解決に取り組み、多くの人を正統派信仰に導いたのが、聖ドミニコです。
カタリ派は二元論で、霊と物質を対立させて、次のように考えました。「善なる霊は厳しい修行によって、悪である体(物質)から解放され、最後は死によって自由となるが、解放されていない霊は、再び物質(悪)と結び付いて動物となることもあり得る。善なるキリストは、悪である物質と結び付くことはあり得ないので、キリストの体は見せかけにすぎず、その死も見せかけにすぎない」と。
神の復帰摂理から見るとき、第二祝福の復帰現象は、さまざまな宗教を基盤に人類を一つに結び付け、最終的に「人類一家族世界」を実現させていかなければなりません。救いに関しては、旧約・新約・成約、さまざまな説き方がありますが、しかしすべての根本となる創造原理は永遠不変のものです。その創造原理から外れるなら、すべての宗教が超宗教の道を模索し、一つに歩み寄っていくことが不可能となります。一つにさせる神の復帰摂理を妨害する、そういう意味において異端は問題です。
このカタリ派の問題解決のため、早くから法王庁は多くの特使を派遣していました。しかし正統異端論争をいくらしたところで、問題解決には至りませんでした。そんな折、ドミニコが南フランスに立ち寄ったのです。そこで彼は、異端問題が深刻であることを知ります。
司教の任断り修道士を貫く
さてカタリ派と法王庁の対立において、1208年、法王庁の特使がカタリ派によって暗殺され、法王庁はカタリ派撲滅のために十字軍をもって南フランスへ進軍します。このような憎しみの応報をもってしては、根本的な問題解決は不可能であることを知っていたドミニコは、これらの十字軍には一切荷担しませんでした。
一方、カタリ派指導者たちは非常に質素であり、イエスの命じた宣教方法(マタイによる福音書10章)に従って裸足で歩き、托鉢生活をしていました。それに対し、法王庁側の特使や司教は、安楽な生活環境の中にあって、大上段からみ言を語っていたのです。
若いころから自分を犠牲にし、ために生きることに徹していたドミニコは、異端に囚われた人々を救いたいという一念から、托鉢生活に身を投じ、裸足で歩き、カタリ派の拠点となった町々を巡回しました。そして、常に親の立場に立って、ものごとに対処していったのです。
そのドミニコの苦労が功を奏し、多くの人がカトリック信仰に立ち戻り始めました。しかしカタリ派はすでに信仰2世、3世、4世が生まれており、改宗したとしても、彼らの行き場がないために、ドミニコは修道院を建てて収容し、受け入れ態勢を整えていきました。
また、ドミニコは修道者が神学をマスターすることに力を入れました。
それまでの修道院は手仕事が主要日課でしたが、ドミニコ会では神学と説教が重視されました。このような土壌から、後にトマス・アクィナス、エックハルト、サヴォナローラなどの人材が輩出されます。
ドミニコは、何度か司教の任を受ける機会がありましたが、それを断り、最後まで修道士として生涯を貫きました。彼の生涯はみ言を重んじ、そのみ言の上で祈りと実践を重んじたものでした。
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次回は、「トマス・アクィナス」をお届けします。