2022.07.31 17:00
第3部 中世期に活躍した人々
②聖ベルナルドゥス
岡野 献一
『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)
著作通して宗教改革者に影響
中世のキリスト教世界において高くそびえ立つ二つの峰は、アシジ(アッシジ)の聖フランチェスコとクレルヴォーの聖ベルナルドゥス(1091-1153)であるといわれます。中世暗黒時代と呼ばれる、霊的に低迷する時代に、ベルナルドゥスは多くの人々を悔い改めに導き、彼の影響の下で立てられた修道院は1800か所を超えました。
23歳で修道院を建設、院長となる
偉人の背後に賢母あり。彼の母アルタは世界史における賢母の一人と数えられる女性であり、彼女は家庭の中にあっても修道生活と同じ戒律を守って生活をし、六男一女の子供たちに信仰的感化を与えました。
また、彼の父は知勇に秀でた武将であり、フランスの名門の出。ベルナルドゥス自身も学問、文才に恵まれていたため、この世の立身出世を果たそうとすれば可能な環境にありました。しかし母の影響を受けていた彼は、神のために生きることを誓ってシトー修道会に入会したのです。そればかりか、彼は自分の兄弟をも熱心に勧めて修道院に入らせ、さらには叔父をはじめ親族をも次々と導いていきました。そのようにして、彼の熱心な指導のなかで、まず家族や氏族、友人30人が神の前に献身を誓ってシトー修道会に入会していったのです。
彼は23歳の若さで、フランス北東部のオーブ川の谷の荒れ地にシトー会の修道院を建て、その院長となります。それまで「うじ虫の谷」と呼ばれていた地でしたが、それ以来「光明の谷(クレルヴォー)」と呼ばれるようになりました。このようなベルナルドゥスのめざましい活躍によってシトー修道会は黄金期を迎え、その影響圏は全ヨーロッパにまでおよび、修道院熱を高めていきます。おかげで、世俗化して霊的に低迷する中世期にあって、一条の光が天から差し込んで、領主をはじめ多くの一流の男女が修道生活に入っていったのです。
彼の生涯における大きな事件の一つは、法王インノケンティウス2世とアナクレトゥス2世という二人の法王が1130年に立つことで、カトリック教会が分裂の危機に瀕(ひん)したとき、それを収拾したことです。
ベルナルドゥスの人格に触れて、当時の諸国の君主をはじめ法王やほかの聖職者たちが心服し、やがて彼に教会分裂の危機の収拾を一任するに至ったのでした。彼は責任を感じ、厳粛な思いをもって慎重に検討を重ねた結果、1138年にインノケンティウス2世を推挙することで、教会分裂の危機を回避させたのでした。
感動と感化与えた「13番目の使徒」
さて、彼は深い瞑想の中で数多くの著作を著しており、現存するものだけでも省察録5巻をはじめ、雅歌講解説教86冊、書簡500書、説教350回分、恩恵と自由意思論の小論文などがあります。トマス・ア・ケンピスの著作とされる「キリストに倣(なら)いて」という本は、彼の言葉にあふれているとさえいわれています。
特に、彼の省察録は、法王らの幾代にもわたる権力闘争に対し強く批判しており、カトリック教会の改革に対する強い熱意に燃えたものでした。
真のお父様は、書物が歴史に大きな影響を残すことについて「先生の中の先生が本です。本をもって改革しなさい。…本以上の先生はいません。本を無視し…宝の持ち腐れにしてはいけません。共産党が70年間に世界の半分を制覇したのも、本をもってやったのです」(1995年1月1日)と語っておられますが、彼の書も、ルターをはじめ宗教改革者に大きな影響を及ぼしました。
彼はフランスを背景に活躍した人物にもかかわらず、ドイツにおいてさえも、人々は彼の風貌(ふうぼう)に接しただけで強い感動を覚え、感化を与えたという記録が数多く残されており、巷(ちまた)においては、彼を第13の使徒と呼んでいたほどでした。
音楽の父バッハの「マタイ受難曲」にも歌われる賛美歌136番は、彼の作詞によるものです。「血潮したたる、主のみかしら、とげにさされし、主のみかしら…」。『原理講論』に「法王庁が腐敗して、トマス・アクィナス、聖フランチェスコなど、修道院の人物たちが彼らに勧告して、内的な刷新運動を起こした」とありますが、彼は、神が遣わした預言者の一人でした。
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次回は、「聖ドミニコ」をお届けします。