2022.07.22 22:00
【テキスト版】
ほぼ5分でわかる人生相談Q&A
幸せな人生の極意!
第97回 良心の呵責から来る罪悪感で苦しんでいます
ナビゲーター:阿部美樹
皆さん、こんにちは!
今回は、「良心の呵責(かしゃく)から来る罪悪感で苦しんでいます。どのように受け止めたらよいでしょうか?」という質問です。
罪悪感とは自分の行動や在り方に「罪を犯した」「悪いことをした」と感じる意識ないしは感情のことです。
罪悪感が生まれる基準となるのは、その人が持つ規範意識・ルールです。
そのルールを大別すると三つあります。
第1は、社会のルールです。
社会や公共のルールである法律を守ること、人として歩むべき人道的なルールを守っているかという基準です。
そこから外れた行為を取ったときに罪悪感を持つようになります。
第2は、道徳的なルールです。
「うそをつく」「約束を破る」「浮気をする」など、法律的に罰せられなくても社会的に認められない行為に対して罪悪感を持つようになります。
第3は、宗教的なルールです。
宗教的な戒律や教えに合った正しい行いや姿に反したときに罪の意識を感じるようになります。
このように、人間は誰もが、いくつかの段階があるにしても、善なるものを求め、悪なるものを退けようとする心を持っていることが分かります。
しかし人間は、正しいことだと思っていても、なかなかそれを行うことができないものです。
一方、間違っていることだと分かっていても、つい行ってしまうという複雑な心を持っています。
このように、心に矛盾を抱える状態が生じてしまった背景について、聖書では、人間始祖アダムとエバの堕落によるものだと記しています。
葛藤の原因は、心の中に相反する「本心」と「邪心」が存在するからだということです。
堕落人間の心は、常に為(ため)に生きる真の愛を動機とした本心と、自己中心の偽りの愛を動機とした邪心が熾烈(しれつ)な闘いをしている状態だと言えます。
それ故、人間が邪心の欲するとおりに生きようとすると良心(本心)の呵責を感じて本心の願う方向に引き戻そうとします。
一方、本心の願うとおりに生きようとすると、心の底から「本心の願うとおりに生きることができて良かった!」という思いが湧いてきます。
まさに、本心こそ真の心であり、邪心は偽りの心であることが分かります。
ですから、本心で生きる姿こそ本物の私の姿であり、邪心で生きる姿は偽りの私の姿として捉えることが大切です。
もし、邪心を自分の姿だと捉えると、罪悪感による裁きで苦しむことになることでしょう。
罪悪感を生じさせる良心の呵責を、自分に対する裁きではなく、神の愛の導きと受け止めることが大切ではないでしょうか。
神は、どのような堕落人間に対しても、諦めることなく愛を持って救おうとされています。
人間が罪を犯しても、諦めることなく「あなたは神の子女だ」と赦(ゆる)そうとされる神ではないでしょうか。その救いの叫びが「良心の呵責」なのです。
このように、良心の呵責を自虐的に、自分に対する裁きや批判と捉えるのではなく、神の愛の導きであり、神の子女である証拠だという肯定的な捉え方をすることが大切です。
罪を犯したとしても、神の愛に応えようという心で悔い改めるなら、自分を変えていく大きな力になることでしょう。
皆さんからの質問をお待ちしています。
「人生相談Q&A」で、ほぼ5分でお答えいたします。
また、お会いしましょう!