2022.07.11 22:00
「性解放理論」を超えて(41)
ミシェル・フーコー⑤~キリスト教批判
「統一思想」すなわち「神主義」「頭翼思想」によって生きるのか、神の言(ことば)を否定する思想を選択するのか…。
『「性解放理論」を超えて』を毎週月曜日(予定)にお届けします。
---
大谷明史・著
五 ポスト構造主義を超えて
(二)ミシェル・フーコー
(6)キリスト教批判
フーコーによれば、近代社会で性行為がこのような否定性の刻印を帯びているのは、キリスト教の道徳において、性というものが人間の原罪と結びつけられたからでした。フーコーは、キリスト教の司牧者(神父、牧師)は原罪説を振りかざしながら、信徒たちを支配していると言い、それを司牧者権力として断罪します。
中山元(なかやま・げん)は、フーコーの言う司牧者権力について、「この権力はなによりも信徒の魂の幸福を気遣う利他的な権力であるかのように装う。しかしこの司牧者は、もはや羊たちの幸福を本来の目的としていない。来世における魂の救済という〈餌〉によって、羊たちをみずからの支配下におくことを目的としている(※18)」のであり、司牧者の権力は「生を目的とするようにみえながら、実は生者に死を命じる権力であるという“悪魔的な”あり方をする権力(※19)」であると、説明しています。フーコーはキリスト教道徳を悪魔の仕業とみなしているのです。
フーコーは、人間の原罪を認めたくないために、また自己の同性愛の性癖を合理化したいために、キリスト教道徳を激しく非難しています。ニーチェもキリスト教道徳を奴隷道徳として激しく非難しました。しかしキリスト教は、真(まこと)の愛を実現するために、肉体の性的欲望に従って生きることを戒めたのです。規範を守らないで性的欲望に従って生きれば、悪霊に主管されてしまうからです。
「統一思想」から見て、真の男女の愛(夫婦愛)を実現するために、男性も女性も、結婚前には純潔を守り、結婚してからは互いに貞節を守ることが必要です。そして男性は男性らしく、女性は女性らしく造られているのです。フリーセックスや同性愛では真の愛を築くことはできないのです。
---
※18 中山元『フーコー入門』筑摩書房、1996(193-94)
※19 同上(224)
---
次回は、「ミシェル・フーコー⑥~絶対的真理の否定」をお届けします。