2022.07.04 22:00
「性解放理論」を超えて(40)
ミシェル・フーコー④~古代の性倫理
「統一思想」すなわち「神主義」「頭翼思想」によって生きるのか、神の言(ことば)を否定する思想を選択するのか…。
『「性解放理論」を超えて』を毎週月曜日(予定)にお届けします。
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大谷明史・著
五 ポスト構造主義を超えて
(二)ミシェル・フーコー
(5)古代の性倫理
フーコーはキリスト教に代表される性倫理が普遍的、絶対的なものでないことを示すために、古代ギリシアにおける性に対する倫理観の研究を行いました。
フーコーによれば、「古代人にとっては、性はその本性からして良いものであった。性は倫理的な問題化の対象にはなったが、それは性がその本質からして禁止されていたからではなく、性には危険をもたらしかねない側面がいくつかあったからである。……私たちが過度の放縦によって自らの生を台無しにしてしまうかもしれない、ということなのである(※15)」。そして古代の倫理的生活の目標は、節制(sophrysune, ソープロシュネー)でした。
同性愛に関しても、古代の性倫理は同性愛それ自体を邪悪で非自然的な行為とするキリスト教的な糾弾とは無縁であったと見ています。同性愛は法律によって許されていたと言います。
フーコーによれば、古代ギリシアにおいては、性はその本性からして良いものでした。そして、同性愛を罪悪視するキリスト教道徳を批判しています。しかし中山元(げん)は、プラトンを転換点として、ギリシアの道徳はキリスト教的な道徳に近づいていったと、次のように指摘しています。
プラトンの真理への欲望の理論は、ギリシアにおける性と道徳の関係についての考察方式の一つの終焉(しゅうえん)を告げるものであった。ギリシアでは[禁欲ではなくて]自己の欲望を制御する技術こそが道徳性であった。しかしプラトンを転換点として、これからは自己の欲望を利用し、欲望を解釈し、真理へと向かうことが課題となる。自己の欲望とその真理を解釈するキリスト教的な道徳がここで予告されているのである(※16)。
したがって、古代ギリシアの道徳が、プラトンやローマの哲学者によって、高められ、さらにキリスト教道徳へと連結されていったと見るべきです。フーコーはキリスト教道徳を否定しようとして、古代ギリシアの道徳を持ち出して、「キリスト教的なセクシュアリティ観の興隆とは、より称賛すべき古代のセクシュアリティ観の堕落にほかならない(※17)」と見ていますが、そうではありません。古代ギリシアの道徳はやがて来たるべき、より真なる道徳のための準備段階であったのです。
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※15 ガリー・ガッティング、井原健一郎訳『フーコー』岩波書店、2007(149-50)
※16 中山元『フーコー入門』(213)
※17 ガリー・ガッティング『フーコー』(148)
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次回は、「ミシェル・フーコー⑤~キリスト教批判」をお届けします。