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「性解放理論」を超えて(39)
ミシェル・フーコー③~性

 人類は今、神とサタンの総力戦の中に生きています。
 「統一思想」すなわち「神主義」「頭翼思想」によって生きるのか、神の言(ことば)を否定する思想を選択するのか…。
 台頭する性解放理論を克服し、神の創造理想と真の家庭理想実現のための思想的覚醒を促す「『性解放理論』を超えて」を毎週月曜日(予定)にお届けします。

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大谷明史・著

(光言社・刊『「性解放理論」を超えて』より)

五 ポスト構造主義を超えて
(二)ミシェル・フーコー

(4)性
 フーコーの関心は性(セクシュアリティー)に向けられました。言説が人間を規定すると言うフーコーの立場から見れば、性的本性なるものは、つくり上げられたものだということになります。タムシン・スパーゴ(Tamsin Spargo)によれば、フーコーは「セクシュアリティは生まれつきの資質でも、人生における事実でもない。それは生物学的な起源というよりも、むしろ歴史的、社会的、文化的な起源を持つ、経験の構築されたカテゴリーである(※12)」と見ています。したがって性に対する規範は、社会的行動規範にすぎないものです。そしてフーコーは、そのような性道徳に対して戦いを挑んだのです。

 ところでフーコーは、性に最大の関心を向けながらも、一方で「性は退屈きわまりないものです(※13)」と言って、性は人生において、本質的なものでなく、付随的なもののようにみなしていました。フーコーは自らの同性愛の中に虚(むな)しさを感じていたのです。

 「統一思想」から見るとき、性は歴史的、社会的、文化的につくられたものでなく、性倫理は権力的なものでもありません。性は真(まこと)の愛を実現するためのものであり、そのために、心身共に男は男らしく、女は女らしく造られているのです。そして性倫理は真の愛を実現するための規範なのです。さらに性は些細(ささい)なものでなく、本来、神聖で貴いものです。歴史家のポール・ジョンソン(Paul Johonson)も、性の貴重さを次のように述べています。

 性のない世界は、たとえ機能したとしても、生気がなく退屈で不毛なものになるだろう。まるで生けるしかばねである。性は活力と興味の両方を与えるのだ。性は驚嘆すべきものだ。神の創造行為のなかで、ビッグバンに次ぐすばらしい巧妙な思いつきである。いちばん魅力的でもある。

 性がさまざまな組み合わせによって生命をつくり出すはたらきを観察するのは、宇宙の膨張を見るよりおもしろい。その上、生物の形態が高等になればなるほどその性のありようは興味深くなり、将来さらに興味が増すだろうというメリットもある。性に秘められた可能性はほかの何にも劣らず無限で、その探求はまだ始まったばかりにすぎない。……性は創造主にとって明らかに非常に大切なものだから、特別に尊重しなければならない。それは付随的なものではなくて、根本的に重要なものだ(※14)。

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※12 タムシン・スパーゴ、吉村育子訳『フーコーとクイア理論』岩波書店、200413
13 ガリー・ガッティング、井原健一郎訳『フーコー』岩波書店、2007141
14 ポール・ジョンソン、高橋照子訳『神の探求』共同通信社、199784

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 次回は、「ミシェル・フーコー④~古代の性倫理」をお届けします。


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