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「性解放理論」を超えて(38)
ミシェル・フーコー②~言説

 人類は今、神とサタンの総力戦の中に生きています。
 「統一思想」すなわち「神主義」「頭翼思想」によって生きるのか、神の言(ことば)を否定する思想を選択するのか…。
 台頭する性解放理論を克服し、神の創造理想と真の家庭理想実現のための思想的覚醒を促す「『性解放理論』を超えて」を毎週月曜日(予定)にお届けします。

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大谷明史・著

(光言社・刊『「性解放理論」を超えて』より)

五 ポスト構造主義を超えて
(二)ミシェル・フーコー

3)言説
 やがてフーコーは、歴史における支配原理としてのエピステーメーに代えて、言説(discours, ディスクール)を前面に押し出しました。言説とは、特定のエピステーメーによって生み出された概念や言明や信念の集積、すなわち特定の知識体系にほかなりません。そして言説構造を構成する個々の単位をフーコーは言表(énoncé, エノンセ)と呼びました。

 フーコーは、言語は本源的な現実を単に反映するものではなくて、言説こそが私たちの知覚する現実を規定するのだ、と主張します。そして私たちは物質的対象や世界を、言説とそれが私たちの思考に押しつける構造によって初めて、考えることができるし、経験できるのだ、と言うのです。

 結局、フーコーの発想は、言語はそれを用いる人間の考えを表現する道具というよりは、それ自体が思想の源泉であるということであり、人間が言語を操っているのではなく、言語が人間を操っているのです。それは、人間に代わって、言語や思考が頂上の座に就くということです。サラ・ミルズ(Sara Mills)は、「神の座に、人間をつかせるのではなく、誰のものでもない思考を、主体のない知を、アイデンティティのない理論性をもってくるわけです(※11)」と言います。かくして「人間の終焉(しゅうえん)」を迎えたと言うのです。

 さらに、「言説は権力を運び、産出する」として、フーコーは知(言語や思考)を、「知/権力」と呼んで、権力と情報の結合として捉えています。そこには権力を嫌悪するフーコーの姿勢が強く現れています。

 フーコーによれば、人間は言語を操る主体ではなく、言語が人間を操っているというのであり、人間に代わって、言語や思考が頂上の座に就くというのです。「統一思想」から見れば、人間が言葉を用いて思考し、認識しているのであり、それは愛の世界を実現するためです。したがって、言葉は本来、愛の媒介体であり、愛の運搬役なのです。

 フーコーは「誰のものでもない思考、主体のない知、アイデンティティのない理論性が神の座に座る」として、「人間の終焉」を迎えると言うのですが、そうではありません。真(まこと)の愛の人間が登場し、神を中心として、人間が世界の頂上に座るようになるのです。

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※11 サラ・ミルズ『ミシェル・フーコー』(177

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 次回は、「ミシェル・フーコー③~性」をお届けします。


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