2022.07.10 13:00
信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(61)
家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。
金元弼・著
第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
四、興南解放と釜山伝道
尊敬のあまり心情的距離があったころ
先生にお会いした時の私の心と、先生が刑務所から出られて避難していた時の心との変化について、述べたいと思います。
最初先生にお会いした時の私は、ただただ私とは次元の違う方だと考えました。ちょうど小学生が初めて入学した時、自分の先生に対して感じるのと同じように、次元の違うお方であると感じたのです。
今、ヨーロッパの兄弟たちは、学校の先生に対してそういうことを感じるかどうか分かりませんけれど、私が幼い時は、教えてくださる先生に対しては、とにかく尊敬の念で対しました。今は韓国も、西洋文明が入ってきて、小学生でも先生に対する尊敬の念はかなりなくなりました。
学校の先生を尊敬するようになったのは、その当時の先生が、親が子供に対するように、教え子に対して犠牲的奉仕をもって教えて、愛したからです。先生も模範的な生活をしたのでした。自分の尊敬する先生の写真をポケットの中に入れて歩くこともありました。
私たちが原理を理解して子供を教えるならば、子供たちは私たちを尊敬してくれるようになると思います。360軒の人に奉仕し、尽くすならば、彼らは最初のページに文(ムン)先生や親の写真ばかりでなく、私たちの写真も貼るようになるだろうということも、先生のみ言の中の一つでした。学校で子供にそのように教えるならば、子供たちは先生を、そう考えるようになるのです。その学校では、先生の恩に感謝するということで、謝恩会がありました。
幼いころ、自分の先生をそう考えていたせいか、文先生にお会いした時に、私はそういう心を抱きました。率直に言って、先生は私たちと違って、トイレにも行かれず、食事もなさらない、そういう超人間と考えました。私の年齢はその時、もう18歳でした。その私の目には先生と共にいた霊能者も、年取っている人も、すべての人が天使のように感じられました。そして、その人たちのお話は、神のみ言のようでした。私はただ聞くだけで信じられるものですから、聞くだけでいっぱいになり、何も言うことがなかったのも、当然なことだと思います。
ある日のこと、先生が牢屋に入られていた時のことですけれども、ある婦人の食口が教会の庭にあった花鉢が壊れていたので、それを丁寧に直していました。そして、「人間の心霊がこのようであるとするならば、どうでしょうか」と独り言を言っているのを聞いて、私は信仰の在り方を習いました。
先生が牢屋に入る前、私はいつも家から通い、先生とある距離をもってお会いしていました。ある時に、たまたま家に帰る時間が遅れて、先生と一緒に休んだことがありました。同じふとんに寝たのです。夏でしたので非常に暑く、その当時、教会には南京虫がたくさんいました。それは丸くなっていて人の血を吸い、かまれたらとてもかゆくて、はれ上がります。色は赤みがかった茶褐色の虫です。今からもう33年前ですから、駆除するいい薬がなかった時のことです。
夜中の一時ごろになって床に入ったのですが、先生は隣で何も気にせずに寝ていらっしゃるのに、私は最初からかまれて、かゆくて眠れませんでした。眠れないこと自体は問題ないのですが、とにかくかゆくてしょうがありません。でも、私がかくために体を動かしたら、先生が眠れないと思い、闘っていました。そして私も、いつの間にかくたびれて、寝てしまった覚えがあります。
先生にお会いすると、心は喜ばしいのですが、何も話ができない状態でした。一人でいる時には、これを聞きたいと思う大きな悩みがあっても、いったん先生のところに行くと、いつの間にか小さな悩みに変わり、聞こうという勇気が何も出てきませんでした。しかし家で一人になると、その悩みがどんどんどんどん大きくなって残ります。そしてまた先生にお会いして、いろいろな話を聞いていると、それは小さくなってしまいます。「なぜこんなことで悩んだのだろう」と考えました。
それで家に帰ると、それがまたまた大きくなってきます。「これだったら、先生にお話しして打ち明けたらよかったのに。次に行ったら話そう」と考えて、また訪ねます。しかし、また小さく見えてきて、何も問題になりませんでした。そのようにして、いつの間にか、自分でそれを解決していくようになったのでした。
それからのちも、いろいろと問題はありましたけれども、直接お聞きしなくても、間接的にいろいろなみ言を聞くことによって、一人で整理していくようになりました。私は、そんなに深刻な問題をもって、「これはどうですか、あれはどうですか」と先生にお伺いした覚えがありません。どんなに信じられないことがあっても、先生のすべてを見ることによって、徐々に全部分かっていくようになりました。
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次回は、「メシヤに侍るということ」をお届けします。