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心情開拓
心霊を育てる生活原則(59)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

4 復帰歴史に見る生活原理
(1970年1121日)

▲李耀翰先生

【ノアの家庭】
ペテロの内心

 あるいはペテロが、3年間自分を育てて、迫害を受けながら、相当親戚にも自分の家庭にも捨てられて、イエス様を誇りながら歩いたけれども、ちょっとの考え違いで、「イエス様を私は知らない」と言いましたが、このちょっとのことが問題になったのです。今まで信仰してきたことと比べて、恥じたというのはちょっとのことですが、内的には、自分の信仰の内容が、そのまま出てきたといえます。

 根っこには、自分の腹の中では、堕落した人間そのままで、120年間ノアに侍ったけれども、ノアの言うとおりに合わせただけで、反対しようとしても反対する知識がないから、自分をそのままにして信仰していたのです。根本的に、ノアと内的なものが一体となった場合は、いくら裸になっていても、平気でかぶせてあげられたはずです。

 ペテロも本当にイエス様と情的に一体となっていたなら、十字架につけられても、人に殴られても、どんなに悲惨なところに転がっても、自分も一緒に行ったはずです。かえってそういう時には、情的に結んだ人は徹底的に落ちかけて、一緒に苦しみ、悲惨な立場へ落ちやすいのです。共に行きやすいのです。

 死ぬという場合、情というものは、いくら環境が悪くても勇気が出るはずです。今まで一緒に歩いても、内的には別々だったから、何か困難に陥るとすぐ別れるのです。それは、内的には全然関係がなかったということです。

 ペテロはイエス様と3年間迫害を受けましたが、内的には全然関係がなかったのです。その証拠が「知らない」と言ったことです。成功すれば命懸けで従おうとしたのでしょうが、失敗しそうな立場になると、もう別れてしまったのです。

 ハムのしくじり、ハムが恥ずかしく感じた条件は、私たちが考えるほど簡単なものではありません。実に堕落したのちの天使長との愛と、神との本性の愛とに交わって、血統的に混血になったのです。それを、み言(ことば)を通じて私たちの愛を高め育て、今まで天使長との関係で結ばれたその素性(そせい)を完全に聖別して、神だけが授受できる素性に再創造することは、こんなにも難しいということです。ハムのこともそうですが、あとの情的問題が私たちの行く道をふさぐのを見ると、本当にこれは怨讐(おんしゅう)だと、つくづく感じます。

 この肉体は、勝手なことを感じるし、勝手なことを考えます。自分は今まで永遠性をもって信仰していたのに、時間性を受けたものに刺激されたり、永遠という本性を中心として、永遠という価値を好んで、そこに誠意を込めて努力しながら、とんでもないことをしています。無責任な、考えのない、うっかりするとか、軽率に、ぶつかったその場面で、自分勝手に、ああだこうだと判断する堕落の情的流れ、こういう自分が本当にかわいそうだというか、悔しいものです。

 善の方に向かって道を探していたのに、急に、自分が歩いてきたその路程を考えずに、勝手なことをするのです。ノアの家庭だけでなく、私たちも失敗しやすく、ハムのような情的発露をする可能性がたくさんあるのです。皆さんも知っているはずです。

 信仰生活は、そこまで入ってそれと闘わないと、問題が起きて、自分の情的な条件を立てたあとに悟るのです。「あんなふうに思うのではなかった。あんなふうに心配するのではなかった」と、条件を立てたあとに、後悔しています。立てる前に主管しなくてはならないのに、ハムも、失敗したあとに知ったのです。

 ペテロも3年間イエス様と生活を共にしました。その生活が、小さい女の子の、「この人もイエスというナザレ人の集団の人のようですね」という言葉で崩れたのです。ペテロに質問するわけでもない、ただ言っているのを聞いて怖がった、それが条件となってしまいました。ペテロは、相当恐怖心をもって「違うんだ!」と、小さい女の子にまで、自分がナザレ人でないと言ったのを見ると、本当に私たちの血統問題が、相当な問題となっていることが分かるのです。

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 次回は、「小さなものにも忠を尽くせ」をお届けします。


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