2022.07.03 17:00
第2部 カトリックの基礎を築く
⑤アンブロシウス
岡野 献一
『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)
権力に屈せずカトリックの基盤つくる
ミラノの聖者と呼ばれ、今日まで多くの人々から尊敬を受け続けてきたアンブロシウス(339頃-397)。彼は古代ローマ教会の四大博士の一人として、カトリック教会の確立のために大きな貢献をしました。
召命感じ、財産ささげミラノ司教に就任
彼の生きた4世紀末は、ローマ帝国が崩壊しつつある激動の時代であり、キリスト教が歴史的宗教として生き残るには、異教や異端と対決し、正統派として盤石(ばんじゃく)な基盤を確立しなければならない時代でした。
キリスト教はコンスタンチヌス大帝(在位306-37)のミラノ寛容令で公認されますが、しかし大帝の異母弟の子、背教者ユリアヌス(在位361-63)の即位によって受難時代を迎えます。大帝没後、実子コンスタンティウス2世(在位337-61)はユリアヌスの一族を処刑。ユリアヌスはヘレニズム教育を受け、キリスト教への復讐心を持ちます。彼は副帝としてガリアに赴任。戦勝をあげて名声を博します。恐れたコンスタンティウス2世はユリアヌスを討とうと軍を進めますが、病死したのでした。皇帝となったユリアヌスは異教の復興を図り、またキリスト教内部抗争を利用し、キリスト教を弱体化させようとアリウス派などの異端と接近。さらに、クリスチャンの高官就任を禁じ、教育機関からクリスチャン教師を締め出すなど、キリスト教絶滅を企てるのです。
その時代の流れの中で、猛威を奮っていた異教と戦い、アリウス派などの異端と戦ってそれらを撃退し、正統派を守るために戦ったのがアンブロシウスでした。
彼は、現ドイツのトリールで、ガリア総督の子として生まれます。彼は立身出世の道をいくためにローマで教育を受け、持ち前の才能と努力で頭角を現わして、374年頃、北部イタリアの地方の総督として赴任。
当時、帝国の事実上の首都であるミラノに居住しました。
ミラノの司教は異端アリウス派で、374年に没して司教職が空席となります。後継者問題を巡って、正統派と異端アリウス派が激突したとき、求道中のアンブロシウスは事態収拾のため教会に乗り込みます。ときに天啓のように一人の子供が「アンブロシウスを司教に」と叫び、それを契機に民衆がアンブロシウスを後押し。神の召命を感じた彼は、全財産を貧者と教会にささげ、洗礼を受け、神学を学び、ミラノ司教として就任したのです。
異端との闘いに断固たる態度示す
彼は寛容な性格でしたが、異端や異教との戦いにおいては、正統派として断固たる態度を示します。ミラノに礼拝所を確保しようとするアリウス派の動きを封じ、元老院が異教の祭壇修復を手掛けることにも断固反対し、正統派を擁護しました。彼は禁欲的運動に共感し、キリスト教倫理の書を執筆。また「アンブロージアン・チャント」と呼ばれる賛美歌集を編集しました。「ミサ」の語を最初に用いたのもアンブロシウスだと言われています。
彼の説教は雄弁で、ミラノでの説教はアウグスティヌスを感化させました。アウグスティヌスは387年、アンブロシウスから洗礼を受けます。
また、アンブロシウスはローマ皇帝とも対等につきあって、キリスト教に威信を与えました。東ローマ皇帝テオドシウス1世がテサロニケ市民を大量虐殺したとき、それを非難。皇帝に懺悔(ざんげ)を命じて従わせましたし、キリストの十字架にひざまずかなかった西ローマ皇帝ウァレンティヌス2世を追放しました。
アンブロシウスは時の権力にも屈しない絶対信仰によって、カトリックの盤石な基盤をつくっていったのです。
ある日、アリウス派の皇后が、アンブロシウスを殺害しようと魔術師に指示し、悪魔に犠牲をささげたとき、アンブロシウスは次のように語ったと言われます。
「私の財産が欲しいなら、私はかまわない。私の身体が欲しいなら、あげよう。私を鎖で縛りたいなら…腕と足を差しだそう。私を殺したいなら、殺しなさい、抵抗しないから。だが、神に属するものが欲しいなら、それを与えられるのは神だけだ」と。
この彼の絶対信仰は、真のお父様の信仰の世界と通じるものがあると言えます。私たちも原理を学び、彼のように異端を見抜ける力を養いましょう。
---
次回は、「オリゲネス」をお届けします。