2022.06.26 17:00
第2部 カトリックの基礎を築く
④ヒエロニムス
岡野 献一
『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)
庶民の聖書を校訂編集
ヒエロニムス(347-419)は博学で知られ、古代ローマ教会の四大博士と呼ばれるなかの一人です(他はアウグスティヌス、アンブロシウス、グレゴリウス1世)。彼は、ラテン語聖書を校訂編集したことで有名で、その聖書は、後にトリエント公会議(1545-1563)でカトリック教会公認の標準聖書とされ、「ウルガタ」(広く流布した聖書、庶民の聖書の意)と呼ばれています。
優れた語学力で“東西教会の掛け橋”
ヒエロニムスは、裕福なクリスチャン家庭に生まれますが、若くして母を亡くします。彼は、母の愛を十分に受けて育たなかったためか片意地で激しやすく、毒舌家で知られています。そのために生涯、数多くの敵をつくったといわれます。しかし、残した功績は不滅で、そのひとつが前述した「聖書」の校訂であり、もうひとつは、彼一流の毒舌毒筆ぶりで異端(分派)を撃退したことでした。この点において、彼は歴史の中に燦然(さんぜん)と輝く人物として知られ、古代ローマ教会の四大博士として、今なお尊敬を受け続けているのです。
彼は若くしてローマに留学。当時有名なラテン文学教師ドナトゥスから文法や哲学、キケロなどの古典文学を学びます。そのとき得たラテン語の深い知識が、後に「ウルガタ」を生み出す素地となりました。
20歳のとき、彼は法王リベリウスから洗礼を受け、その後、修道士になることを決心。友人と共にアンテオケに赴いて苦行の生活をしますが、友人は死に、彼自身も大病を患いました。一命を取りとめた彼は、アンテオケ南東の荒野で隠遁(いんとん)の生活を始めますが、そのころ、熱心にユダヤ人からヘブライ語を習いました。彼は西洋人で最初にヘブライ語を学んだ人物であるとされます。
379年、彼は長老に任命されコンスタンチノープルに赴き、ギリシャ教父の一人ナジアンゾスのグレゴリウスに師事。ギリシャ語習得に磨きをかけました。
彼はその優れた語学力をもって、オリゲネス、エウセビオスらの著作をギリシャ語からラテン語に翻訳し、「東西教会のかけ橋」と称される働きをします。
み言を都合よく用いる分派と闘う
当時の法王ダマスス1世は、ヒエロニムスの非凡な学識を認め、381年、ローマに呼び寄せます。翌年、法王は彼にラテン語訳聖書の校訂を命じたのでした。
当時、流布していたラテン語聖書は「イタラ」と呼ばれ、写本ごとに聖書本文が異なっているといわれたほど乱れていました。肝心の聖書が不統一では、その聖書に基づいて教義を明らかにすることは困難でした。
そこで彼は、ギリシャ語聖書の優れた写本に基づいて、まず、4つの福音書から校訂をはじめ、続いて、ほかの書も校訂していきました。
しかし384年、法王ダマススが死去。翌年、彼はローマを去り、イエス生誕の地ベツレヘムで再び隠遁の生活を始めました。巡礼者の世話をしながら、今度はラテン語訳旧約聖書の校訂を始めたのです。彼は夜を徹する努力で、ヘブライ語原典に基づいて旧約全部の校訂をし、その作業は15年の歳月を要したといわれます。彼はその間、注解書、異端論争など、数多くの著書を残しました。
このヒエロニムスの精誠によって、教会は普遍の基準となる統一された「聖書」を持つことができたのです。
それまで、教会を悩ませた分派には、マルキオン主義という分派があり、聖書のみ言から自分の主張に合うものだけを集め、勝手に自分独自の聖書を作りました。また、モンタノス運動は、霊通する女霊媒師が「これこそ神の言葉である」として、聖書にない言葉を次々と語り、流布していたのです。
そのような分派との闘いに際し、必要不可欠になるのが、普遍的教義の土台となる、ローマ教会公認の「聖書」を確定することでした。そのような意味において、ヒエロニムスが生涯をかけて成し遂げた功績は、偉大なものがあるのです。
このようなキリスト教の歴史を学ぶとき、統一教会においては、真の父母様が公認された400巻(掲載当時)の『文鮮明先生み言選集』や『原理講論』、天一国経典『天聖経』があることは、なんと幸いなことでしょうか。
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次回は、「アンブロシウス」をお届けします。