2022.06.27 17:00
コラム・週刊Blessed Life 222
マックス・ウェーバーの予言
新海 一朗
マックス・ウェーバー(1864~1920)と言えば、経済学、政治学、社会学、宗教学など、広範囲にわたる学術論文を次々に世に出し、世界の多くの知識人たちをとりこにしたドイツの学者です。
彼の活躍は、19世紀末から20世紀初頭にかけての時代ですが、その時代は、欧米の資本主義列強が植民地拡大を目指した帝国主義的な膨張政策の時代でした。
マックス・ウェーバーは、彼の最も著名な書となった『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(しばしば、『プロ倫』と略称される)を発表(1904~1905)しました。
この『プロ倫』の持つ意味合いは、非常に大きく、資本主義とは何かを考える上で、これまでになかった独特の視点を提示するものでした。
マックス・ウェーバーは、『プロ倫』の中で、ベンジャミン・フランクリンに言及し、彼の生き方の中に資本主義の一つの典型的な精神を見ると言っています。
フランクリンは「時間は貨幣だということを忘れてはいけない」と言い、勤勉に、より多くの時間を働けば、それだけ多くの貨幣を得ることができるとし、怠惰を戒めます。
また「信用は貨幣だということを知らなければならない」と言い、さらに「貨幣は繁殖し子を生むものだということを忘れてはいけない」とも言っています。
このようなフランクリンの言葉は、単なる処世訓を述べているのではなく、「信用できる誠実な人」、「自分の資産を増加させることのできる人」という「倫理」や「エートス(習慣)」を述べていると見るのです。
禁欲的プロテスタンティズムのエートスは、「倫理的な色彩を持つ生活の原則」になっていると見ます。
実は、このような精神が資本主義とその発展を生み出した要因であり、精神(倫理的、信仰的要素)が資本主義という経済システムを構築するのに大いに貢献したと考えたのです。マルクスの考え方とは正反対です。
マックス・ウェーバーは、上述のように、米国資本主義の特徴を、精神の側面から考察しました。
事実、米国の資本主義を神は祝福したのです。米国の経済的繁栄がその証しであり、一定の倫理性が意識されてきたことは否定できません。
しかし、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の終わりの部分を見ると、予言めいた奇妙な文章がつづられています。
一つのひらめきが舞い降りて、書かせたとしか言いようのない啓示的な文章です。
「この資本主義の驚異的な発展の中で、将来、人々は檻の中で暮らすようになるかもしれないということを、誰も知らない。新しい予言者が現れ、古くからある考えや理想の復興を叫ぶようになるだろう。さもなければ、機械化された化石的な姿、激しい尊大さで粉飾された者たちの姿が現れるだろう。このような社会の姿を見て、ささやかれるのは、精神のない専門家たちだ、心情のない肉欲主義者どもが跋扈(ばっこ)している、かつて味わったことのないような低レベルの文明の姿ではないか、想像もできないほどの無価値な世界に落ちた」
このような殺伐とした未来予想図を予言的な文章で書いていますが、どういう意味なのでしょうか。
倫理と利潤追求のバランスが取れているうちは、神は資本主義を祝福しましたが、もし、利潤追求という目的のみが暴走し、倫理が喪失した資本主義になれば、「精神のない専門家集団」「心情のない肉欲(金銭欲)主義者の群れ」「機械的な化石現象の社会」が世界を覆う、という予言のとおりになってしまいます。
『プロ倫』の完成に自らをささげたウェーバーに、神は「利潤追求」のみの資本主義に未来はないと告げたのでした。
ここに、「共生共栄共義」の人類全体が幸せになる平準化された社会が到来しなければならない理由があるのです。