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コラム・週刊Blessed Life 221
聖徳太子を支えた秦河勝の源流を探る

新海 一朗

 ウクライナ関連のコラムが長く続きましたので、ここでガラッと話題を変えて、今回は日本の古代史の興味深い内容の一つを探訪してみたいと思います。

 さて、秦(はた)氏一族は渡来系であると、日本書紀に記述されています。
 「秦」は「はたおり」の「はた」と関連しているともいわれ、文字どおり、養蚕、絹、麻、木綿などの織物産業に優れた才能と技術を有する一族であったことは確かです。

 それだけでなく、土木建設業、瓦製造業、金工、刀剣製造、酒造などの幅広い技術を手中に収め、古代日本、随一の大いなる職能集団であったと見てよいでしょう。
 そしてそれは彼ら一族に莫大(ばくだい)な富をもたらしたということは疑いようのないところです。

 秦氏一族のこれらの技術はどこからもたらされたのでしょうか。
 秦氏一族が渡来系であったとすれば、当然、大陸からもたらされたものであると見ざるを得ません。

 中国から朝鮮半島へ渡り、さらに、朝鮮半島から日本へ渡ってきたという経緯を考えれば、秦氏一族の持つ技術の発出地は大陸であり、大陸で育まれたものであるという結論になります。
 秦河勝(はたのかわかつ)の6代前までさかのぼると、秦酒公(はたのさけのきみ)という名前の人物が見つかります。

▲聖徳太子(イメージ)

 秦酒公は、雄略天皇(在位:457479年)の時代と重なっていますから、400年代の後半期(450470年代)に活躍した人物です。
 日本書紀の雄略天皇の15年の条に、臣、連などの諸氏のもとに分散して暮らしていた秦の民を集めたいと秦酒公が天皇に訴えたところ、天皇は秦の民を集め、秦酒公に賜ったとあります。

 このようにして、雄略天皇の頃には、相当の人数の一族集団を形成したことは分かりますが、それよりももっと前の応神天皇の時代(在位:390431年)には、実は秦氏一族が日本に大挙してやってきていたことが日本書紀に記されています。秦氏一族は5世紀初め(406年)に大挙して日本に渡来したのです。

 彼らは秦の始皇帝の末裔(まつえい)であると名乗っていますが、その真偽はともかくとして、弓月国から日本列島まで移動し渡来したということです。

 弓月国は、現在のカザフスタンと中国の国境付近にあった国で、おそらく戦乱や苦役を逃れて、東へ東へと移動して朝鮮半島の東南端に達し、秦韓と名乗る国をつくっていますが、その大部分が、新羅の圧迫を逃れるようにして、百済から日本へと大移動を決行したものと思われます。

 中央アジアにあった弓月国の民の大半は、キリスト教徒であったといわれています。その大部分は、B.C.722年に滅んだ北イスラエルの人々の一部、あるいは紀元70年に滅んで完全に国を失ったイスラエルの人々の一部が中央アジアに逃れてつくった国、「弓月国」(ユダヤ人の国)でした。

 秦氏一族はキリスト教徒であったという場合、そのキリスト教は原始キリスト教、またはネストリウス派の「景教」の信奉者たちであったのかもしれません。

 聖徳太子にぴったりと寄り添い、聖徳太子を物心両面から支え、「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」というような呼び名によって、イエスの馬小屋誕生と重ね合わせるような連想に引き入れるなど、聖徳太子をメシヤ的な信仰対象にした形跡をうかがわせます。

 いずれにせよ、こうした経緯を見ると、非常に篤実な信仰心を持った宗教的な氏族の集団が秦氏一族であったと見ることができます。