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信仰と「哲学」103
希望の哲学(17)
共産主義との出合いと絶望

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 キルケゴールの言う非本来的な絶望、自己を持っていることを自覚していない直接的な美的段階(審美的な段階)で至った絶望によって、無邪気で元気だった私の生き方は一変してしまいました。

 しかしやがて、ある意味では必然的に、こんなに苦しい人生を生き続けることに意味や価値があるのかを問う自己があることに気付くこととなります。

 それが分からなければ、死による苦しみからの解放の道もあるとさえ考えるようになり、価値ある人生を歩む価値ある人間になりたいという自己の存在に突き動かされるようになったのです。

 そこで魅(ひ)かれたのが共産主義思想でした。
 高校2年の時、街の本屋で偶然手に取った一冊の本がありました。
 『歴史と人間』という書籍です。柳田謙十郎(哲学者、共産党員)が書いたものでした。

 その一部に、マルクス主義の歴史観、唯物史観による日本の歴史についての説明があったのです。
 科学的社会主義、歴史の合法則性、社会主義社会から共産主義社会への必然性が希望的に、平等かつ自由な理想社会として描かれていました。

 歴史がそのように進むのであれば、可能な限り早く実現するように人生を懸けて関わるべきではないか、それが人間としての義務であり、価値ある、すなわち倫理的な生き方であると考えるきっかけとなったのです。
 それ以後、読もうとする本は全て共産主義に関わるものへと変わっていきました。

 共産主義運動への関わりの背景には、本来的人間としての生き方を求める段階(倫理的段階)に進もうとする自己がありました。
 しかしその自己は、結局は自己のみに関わる意識にとらわれており、労働者のためとか人類の未来のためなどという言葉と現実存在(実存)としての自分自身の生活はかけ離れたものなのです。

 結局は自己中心でしかないという「むなしさ」の中で、同志との関わりも、単に知識を競い合うような関係となってしまい、生活全体が虚無の中に沈んでいくような絶望が心身をむしばんでいくのが分かったのです。

 大学生活そのものが無意味なものへと色あせていきました。共産主義思想が自分の心に定着しないことを感じていました。それでも、共産主義研究の不足さが原因かもしれないとの思いが片隅にあったのです。

 大学が左翼学生によるバリケード封鎖で休校状態になった時、同じ大学の1年先輩が、新しい学生運動を起こしたいと語りかけてきました。そして3日間、統一原理を学ぶことになりました。
 チンプンカンプンでした。共産主義的な倫理観から抜け切れない、労働者の解放が平等な社会、共同体を実現するという夢から抜けきれない私は、神を中心とする考え方を排除することを全ての出発点としていたからです。

 ところが、初めから神、宗教、キリスト教に関する説明が始まりました。私の心にはそれを受け止めるだけの準備がありませんでした。
 しかし3日間で感じたことがありました。それは同志としての共産主義者より、ここにいる人たち(教会の人たち)の方がより良い社会をつくり上げるのではないかという、否定しようのない感覚だったのです。