信仰と「哲学」104
希望の哲学(18)
信仰生活と絶望

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 共産主義思想に傾倒し、共産主義運動に関わるようになった私は、一般の人々より優位に立つかのような意識を持っていました。より良い生き方を求め、価値ある生き方を求めるという、人間としてより高いレベルで生きているという自負です。
 地位、名誉、財産という世俗的欲望に支配されている人間、ただ生きるためにのみ働く日々を送るような俗人ではないという一種のエリート意識です。

 そして、自分を誇りたいがための知識欲に動かされ、人類のため、歴史発展への貢献などという、抽象的で観念的な意識の仮面で自分を覆って生きるのです。
 この世のためなどという犠牲的生き方を説きながらも、その動機は利己的なものでした。すなわち、生きるため(評価を得るため)の仮の死(犠牲の道)の言説を繰り返すのです。

 これは本当の自己ではない、本当の自己が求めている思想でも行動でもないので、いくら知識を得ても街頭行動に参加しても残るのは「虚無」でした。
 しかし共産主義との関わりは、既述のように私にとって倫理的生活への主体的踏み出しだったのです。

 やがて統一原理を学び、祈り、そして摂理的目的成就のための業務に携わるようになりました。
 統一原理や文鮮明(ムン・ソンミョン)師の教えによって啓発された自己の良心に従って、より本来的な倫理的義務を果たして、真剣に生きようとする生活が始まったのです。
 共産主義思想による活動によって得られるゆがんだ満足とは全く異なるものであったことは言うまでもありません。

 しかし、倫理的、良心的であろうとすればするほど、そのように考え行動できない罪深さや無力さにぶつかるのです。
 今は仕方ないこと、いずれ良心と肉身が流れるように一体となれる時が来るだろうと思い、希望し、呵責(かしゃく)感や罪悪感を押し殺しながら、閉じ込めながら見える仕事に投入する生活だったと言わなければなりません。

 それを「絶望」と表現すべきか、しかしそれを絶望とは言いたくない。なぜなら、祝福を受けているのだから、許されているのだからと考えていたのです。しかし心と体の不統一は続くのです。

 『原理講論』の総序(3334ページ)に、以下のような文言があります。
 すでに紹介していますが、もう一度掲載します。

 「人間がその心の深みからわき出づる真心からの兄弟愛に包まれるときには、到底その隣人に苦痛を与えるような行動はとれないのである。まして、時間と空間とを超越して自分の一挙手一投足を見ておられる神御自身が父母となられ、互いに愛することを切望されているということを実感するはずのその社会の人間は、そのような行動をとることはできない。したがって、この新しい真理が、人類の罪悪史を清算した新しい時代において建設するはずの新世界は、罪を犯そうとしても犯すことのできない世界となるのである。今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである」

 この内容で特に重要なのは、「今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである」という文言です。

 神を信じていても、「観念的であり、実感を伴うものではなかった」のです。
 倫理的段階における「絶望」状態にあったと言わなければなりません。