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信仰と「哲学」102
希望の哲学(16)
私の絶望体験とキルケゴール

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 私の「哲学」は絶望から始まりました。
 キルケゴールは、絶望を「死に至る病」(1849年発刊の著作名)であると述べています。
 絶望感に心がむしばまれ、どれほどの本気度かは自分でも分かりませんが、「死にたい」と思ったこともありました。

 「自分がなりたいと思う姿」に近づこうとする行動がこれまでの自分を傷つけるもの(否定するもの)であったため、友人関係も希薄あるいは切れ、勉強にも集中できず、さらに先輩から暴力を振るわれるなどして、生きていく道が狭まっていったのです。

 自己を意識することによって他者との比較が生まれ、「自分がなりたい姿」が強く意識されるようになった結果でした。

 幼い時の自己意識は、あるにしても強くはなく、それ故にこそ無邪気といわれるのでしょう。それがかわいいのであり、大人から見てある意味の「憧れ」にもなります。
 自分が無いことが、実は人間の魅力の本質的な要素であることが分かります。

 自己意識と「自分がなりたい姿」との関係が、友関係を希薄または断絶させ、勉強に集中できず、他の人をいら立たせる結果となっていきました。

 絶望感が全身をむしばみ、死をも意識するに至ったのです。でも実行することはできませんでした。
 自己意識と「なりたい姿」の関係が人間としての在るべきものとは違うのではないかと思ったからです。

 キルケゴールは、「絶望」という病にかかり得るという可能性が、人間が動物より優れている点であるといいます。

 「この長所は、直立して歩行することなどは全く違った意味で、人間を優越せしめるものである。なぜかというと、この長所は、人間が精神であるという無限の気高さ、崇高さをさし示すものだからである。この病にかかりうるということが、人間が動物よりすぐれている長所なのである」(「キルケゴール」中公クラシックス 18ページ)

 しかし絶望状態にあるのは悲惨です。そして不幸です。これまでの自分の破滅なのです。
 今振り返っても、あの破滅的時期がなかったら勉強や部活動などに集中できたのに、との思いが湧き上がります。

 その一方で、あの時期がなかったら本当の自己にたどり着くことはできなかったと言えるのです。
 この世界での地位、名誉、そして財を獲得しようとする自己はすでにないのです。

 キルケゴールは次のように述べています。

 「絶望は精神における病、自己における病であり、したがってそれには三つの場合がありうる。絶望して、自己をもっていることを自覚していない場合(非本来的な絶望)。絶望して、自己自身であろうと欲しない場合。絶望して、自己自身であろうと欲する場合」(同 15ページ)

 もちろん私の絶望は、「非本来的な絶望」段階から始まったのです。