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心情開拓
心霊を育てる生活原則(56)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

4 復帰歴史に見る生活原理
(1970年1121日)

▲李耀翰先生

【ノアの家庭】
ハムの実体基台

 しかし、横的にも、縦的に進んできた姿勢をもって、平面的にも同じであるか否かを見る期間があります。実体基台でアベルという立場を決めたあとは、サタンと神との、今決めたアベルとの関係を見る期間がそれです。

 実体基台には、期間という条件はないのですが、必ず期間はあります。信仰基台にも期間がありますが、ノアとハムとの関係に対して、ノアは裸になってハムに見つかった時、ハムがノアの裸を見た時、その時が、アダムの家庭では、カインがアベルの祝福を見た時の情的方向に相当します。本当に今まで、平面的に、ノアという中心人物が自分の家族たちに相当尊敬されていた基準があります。その基準以外にノアが今まで見せていなかった面を見せて、その基準が維持できるかできないかというのが、サタンを分別する条件になるのです。それを試すのです。

 情的条件をどのように立てるか。本当に神のものか、もう一遍情的発露を見ましょうと、こう神とサタンとが見る場面があったのです。

 ハムが恥ずかしくなったのです。恥ずかしさを発露したのです。どういう立場で恥ずかしく感じたかということが問題なのです。今までノアを見た基準で、今自分が発見したノアの中に見た時の立場、今まで信仰してきた立場、今発見した立場、箱舟を造りながら、120年間歩んだその立場と、今になってノアを見た立場、どの立場で恥ずかしさを発露したか、感じたかということです。

 今まで、信仰基台をつくってきたノアに対して侍りました。ノアはとても世間から迫害を受けたのですが、自分たちが一緒になって勝利しました。また、ノアに対しては、神と共に神の摂理に責任をもってきた立場の人として、人格的あるいは箱舟を造る時の信仰的生活を見て、侍ってきました。しかし今、ぶどう酒を飲んで酔っ払っている裸体をどう見たらいいのか。

 どう見ていいかというハムの立場は、今その一点、その場面を、神と共に酔っ払ったか、神の立場でやったのか、どの立場かを考えて、神に尋ねてみるべきだったのです。「ノアはどういう立場ですか、これはどういう意味ですか」と、自分が分からなかったなら聞くくらいでなければならなかったのです。自分も神の立場、自分も神の主管圏にいる、40日のサタン分別をしたのだから、神に聞いてみるべきだったのです。そうすれば、自分勝手に恥ずかしいとか、良いとか、自分が軽率に、ああだこうだと決めてはいけなかったのです。自分勝手に判断してはいけなかったのです。

 信仰の主体は、ヤハウェです。そのヤハウェとノアが一体となって120年間、あるいは40日を過ごしたのなら、ハムは、ノアを神の立場で見るべきなのです。あるいは、どういうわけでこういう結果が現れたのか分からないなら、聞いてみればよかったのに、自分勝手に恥ずかしさをもったのです。神の立場からではない、血統的立場からその感じをもったのです。

 恥ずかしさそのものが問題になるのではなく、恥ずかしく思った立場は、だれと共に恥ずかしくなったか、神と共にかどうかです。だれが恥ずかしく思うから自分も恥ずかしく思うのか、だれと共に、だれの立場でハムは反対したのかが問題なのです。

 120年間箱舟を造る時も、恥ずかしかったはずです。120年間、他の人が信じられないことをしていたから、相当自分も疑う生活があったかもしれません。しかし、なぜ疑わなかったかというと、ノアは神との関係が絶対的であったし、ノアの言うことを聞いてみると、世間の人たちは迫害しているけれども、ノアは気違いでないことが明らかだったからです。それで、信仰の主体者を一度裸にさせてみたのです。

 いつも、あがめ、あがめられる立場で信仰させていたのですが、一度自分より下に落としてみたのです。裸になったというのは、今まで自分以上と思った主体者を、自分の基準以下に落としてみたのです。それをどう感ずるかです。

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 次回は、「蕩減条件の立て方」をお届けします。


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