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第2部 カトリックの基礎を築く
②ユスティノス

(光言社『FAXニュース』通巻857号[20031210日号]「キリスト教信仰偉人伝 李相軒先生のメッセージに登場した人々」より)

岡野 献一

 『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)

ローマの迫害時代に殉教

 キリスト教は、ローマ帝国において313年に公認されるまで、厳しい迫害の路程を通過しました。「犯罪の陰にはクリスチャンあり」と噂される時代圏にあって、数多くのクリスチャンが殉教していきました。ユスティノス(100?-165)もそのなかの一人です。

▲ユスティノス

老人からメシヤ降臨を教えられ、人生が変わる

 イエス様当時、ユダヤ教は基盤絶大で、ローマ帝国の4分の1の宗教人口を占めていたといわれ、公認宗教でした。故にキリスト教がユダヤ教の一派であると思われていたときは守られていました。しかしユダヤ教側が、「キリスト教はユダヤ教ではない。いかがわしい似非(えせ)宗教である」とローマ当局に訴え出、当局もそのような認識を持つに及んで、キリスト教は非公認宗教として迫害されるようになっていったのです。

 迫害の原因は、大きく見て二つありました。その一つは政治的な理由です。「皇帝礼拝を拒否し、国家に対し反逆を企てている」「家庭を破壊し、不品行、魔術を行うオカルト的集団」「既成宗教家の経済基盤を危うくする集団」として非難されたのです。もう一つの理由は、教理的な理由からです。「イエスは不倫の子である。その説く教えは、無学な者をだましたにすぎず、一顧の価値もない教えである」と侮蔑(ぶべつ)されたのです。

 ローマの皇帝で最初の迫害者は、暴君ネロ(在位5468)でした。64年のローマ大火の後、放火の罪の濡れ衣を着せられたクリスチャンが多数虐殺されました。次の迫害者がドミティアヌス(在位8196)です。

 迫害が激増していく中で、キリスト教を擁護する学者たちが現れるようになります。それを護教家(弁証学者)といいます。その代表者がユスティノスでした。

 彼はユダヤ教がさげすむ地、サマリヤに生まれます。幼少期より最高のヘレニズム教育を受け、ストア派、ピタゴラス派、プラトン派などの哲学を遍歴しますが、内心は満たされることがありませんでした。ある日、彼が野原を散歩していると、一人の老人と出会いさまざまな会話をします。その中で、ギリシャ哲人よりも古いイスラエル預言者の存在を聞かされるのです。

 老人は、預言者がメシヤの降臨を預言し、その預言がイエスにおいて成就したことを告げます。その老人の話がユスティノスの人生を根本的に変革させたのでした。

キリスト教擁護のため諸国巡り、真理訴える

 以来、彼は哲学者の一人として、キリスト教を擁護するために立ち上がり、諸国を巡回しながら、キリスト教の教えの真理性を訴えていきました。

 キリスト教の伸展を妨げるものは、ローマ帝国による政治的迫害であり、また、ユダヤ教による教理的批判であり、さらにキリスト教内部から起こった異端(分派)の勢力でした。ユスティノスは、それら三つの勢力に対して、キリスト教を擁護するための反論(弁証論)を書き著していきます。

 彼は、ローマにおいて異端者マルキオンと論戦を交わし、異端に対する『反駁(はんばく)論』を書きます。また、ローマ帝国からの政治的迫害からクリスチャンを守るために『第一弁明』『第二弁明』を書き、時の皇帝アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスなどにささげたのでした。そして、イエス様に対する最初の迫害者であったユダヤ教徒に対しては、イエスこそが旧約聖書に預言されたメシヤであることを弁明するために、『ユダヤ人トリュフォンとの対話』を書きました。

 彼はローマに上京した際、ついに捕らえられ、皇帝マルクス・アウレリウスの師でローマ長官(警視総監)のルスティクスから審問を受け、165年に処刑されたのです。

 『殉教者行伝』には、ユスティノスについて次のように記されています。

 「警視総監は、ユスティノスに言った。『お前は、いかなる生活を送っているのだ』。彼は答えた。『誰からも非難されたり、とがめられたりすることのない生活を』…警視総監は言った。『私の言葉に従わなければ、刑罰を受けるであろう』。彼は言った。『われわれは、刑罰を受けても、救われることを、祈りを通して、信じています』。…聖なる殉教者たちは、神を褒め称えつつ…殉教を全うした」と。

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 次回は、「エイレナイオス」をお届けします。