2022.06.05 17:00
第2部 カトリックの基礎を築く
①アウグスティヌス
岡野 献一
『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)
罪に悩み、自身の無力を実感
メシヤに頼る以外に救いはない
アウレリウス・アウグスティヌス(354-430)。彼はキリスト教史のなかで、思想的に最も大きな影響を与えた人物です。通常、信仰の偉人は、カトリックかプロテスタントかのどちらか一方でのみ尊ばれるものですが、アウグスティヌスは、その双方から「キリスト教敬虔(けいけん)の父」として尊ばれています。
16歳で同棲 異端を信仰
彼は354年11月13日、北アフリカのタガステ(現アルジェリアの北東部)で生まれました。父はその地の名士で異教徒、母モニカは熱心なクリスチャンでした。彼は幼少期、母の影響でキリスト教信仰に触れます。しかし異教徒の父は世俗的成功者になることを願って、彼をカルタゴの学校に送ります。そこでアウグスティヌスは天賦(てんぷ)の才能を発揮し、ラテン文学や哲学などの知識を次々と修得します。父は大いに満足し、さらに野心をあおって立身出世の道を行かせようとしました。彼は幼少期に培った信仰を失い、自分の能力に慢心し、大都会カルタゴの風習に染まっていったのです。モニカの涙の祈りも虚しく、彼は16歳にして同棲生活を始め、私生児までもうけました。やがて彼はマニ教という異端の教えに身を置くようにまでなります。
しかし探求心の旺盛な彼は、カルタゴ、ローマ、ミラノで修辞学を教えながら生計を立て、真理を探究し続けていきました。
劇的回心の陰に母の祈り
真理探究の日々のなかで、やがて母モニカの祈りの聞かれる日がやってきました。
30歳のとき、母と共にミラノに赴いた彼は司教アンブロシウスの説教に心動かされ、パウロ書簡を研究します。そして386年秋、聖者アントニウスの伝記に触れます。その伝記を学んだ彼は「何と私は情けない人間だろう」と悔いて庭に飛び出し、必死に祈ると、「取りて読め」という子供の声を聞きます。聖書を開くと「淫乱と好色…を捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。…主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(ローマ人への手紙13章13~14節)という聖句が目に飛び込んできたのです。彼は神の愛に圧倒され、劇的な回心をしました。
翌387年のイースター、彼は33歳で洗礼を受けます。396年にはヒッポの司教となり、その後、キリスト教史に大きな影響を与える「告白」「神の国」「三位一体論」をはじめ、数多くの著作を残しました。
さて、アウグスティヌスの思想の偉大性は、メシヤの必要性を明確にした点にあるといえます。彼は「救いとは神から来る一方的な恩恵による」と主張します。
人は無力、救いにメシヤ必要
特に、彼と修道士ペラギウスとの間でなされた神学論争が有名です。アウグスティヌスは罪に悩み、罪意識にさいなまされて生きた人です。彼は罪との闘いにおいて自分の無力さを嫌というほど実感した人です。
一方、ペラギウスは品行方正にして鉄の意志をもち、修道士の模範として道徳的に生きることができた人です。ペラギウスは、人間は努力すれば自力で人格者になり、救いに至ることも可能であると考えました。どちらがアベル的か、と言えば、実はアウグスティヌスの立場です。自力で救われるとするペラギウスの考えを突き詰めれば、メシヤの必要性は消滅します。メシヤにすがる以外、救いはないと考えるアウグスティヌスの立場こそが、信仰において極めて重要な立場です。
『原理講論』に「原罪をもつ堕落人間は、彼ら自らの力をもってしては、創造理想を完成した生命の木になることはできない。それゆえ…完成した一人の男性が…生命の木として来られ、すべての人をして彼に接がしめ、一つになるようにしなければならない」(95ページ)とあります。救いには自力ではなく、メシヤが絶対必要であるという事実を理解しなければなりません。
真のお父様のみ言に「父母の血統を受け継いだその基準において、初めて心情圏が相続される。神の心情はどこからか飛んで来るのではない。血統を正さないと…心情の血統がつながらない」(1988年10月30日)とありますが、メシヤに接ぎ木されてこそ、初めて天的心情が相続されるのです。
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次回は、「ユスティノス」をお届けします。