2022.05.29 17:00
第1部 宗教改革者
⑦ジョン・ノックス
岡野 献一
『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)
スコットランドに新教の基盤築く
ジョン・ノックス(1505-72)は、現在の英国北部の地域に当たるスコットランドの宗教改革を推進した人物です。ヨーロッパ大陸と海を隔てた英国およびスコットランドは改革推進のために、特別な働きをしました。
仏に捕らえられガリー船奴隷に
中世のヨーロッパ社会は法王庁(バチカン)を中心として一枚岩となっていた社会です。すべての人々がカトリック教会の影響下で生活を営み、もしカトリック教会の体制に逆らうなら、それは処罰の対象となり、その社会で生きていけなくなることを意味していました。
そのような中にあって英国王ヘンリー8世(1491-1547)が離婚問題を巡って1534年に首長令を出し、法王庁からの独立を勝ち取ったのです。プロテスタント勢力はカトリックから分離した英国王室の庇護(ひご)の下で、英国に基盤をつくっていくこととなります。
その英国王室の親戚、スコットランドのスチュアート家はカトリックを支持する王室でした。ジョン・ノックスは宗教改革を推進するにあたり、スチュアート家との攻防の中で、数奇な運命をたどることになります。
1546年、スコットランド宗教改革の先駆者ウィシャートが逮捕されたとき、弟子ノックスは師と共に捕らえられることを申し出ますが、ウィシャートは「一つの犠牲には一人で十分である」と拒み、以来、ノックスがスコットランド宗教改革の中心人物となっていきます。
その後、彼はカトリック擁護国のフランスに捕らえられ、19か月間、ガリー船奴隷という過酷な苦役を強いられます。彼は苦役から解放されると、プロテスタント支持者でありカルヴァンと親交をもつエドワード6世の治下の英国に渡り、宮廷付き牧師の一人となりました。
しかしエドワード6世が若くして亡くなると、カトリック信者の英国女王メアリ1世が即位し、プロテスタントを激しく弾圧し始めたのです。亡命したノックスはジュネーブのカルヴァンの熱烈な弟子となり、そこで英訳聖書ジュネーブ版を翻訳出版します。その聖書は英国ピューリタン(清教徒)に大歓迎され、高い評価を得ました。
カトリックの影響排除し宗教改革導く
さて、スコットランド女王メアリ・スチュアートはフランス王位継承者と結婚して渡仏。その母マリーが摂政としてフランスの後ろ盾を得、カトリック強化を図ってきました。摂政マリーはスコットランドのカルヴァン主義改革派を撲滅しようと画策します。その激動のとき、ノックスは帰国し、改革派を指導します。おりしも英国女王メアリ1世の短期政権の後、プロテスタント信仰に立つ女王エリザベスが即位し、フランス軍を撃退。こうしてスコットランド改革派の危機は免れたのでした。
1560年8月、スコットランド国会は改革派の信仰を「国教」として決定。ノックスは信仰告白を起草し、信仰告白が採択されます。そして1週間の後、国会は三つの重大法案を通過させます。それは、①法王の権威およびカトリック司教の支配の撤廃②ローマ教会の利益のために制定された法令廃止③ミサ執行の禁止の三つです。スコットランド総人口の約4分の3がカトリック信者という時代に、カトリックの影響を排除する法令が決議されたのは、天運と絶対信仰の勝利としか言いようがないものです。
ところで1561年8月、メアリ・スチュアートは夫の仏王フランソワ2世が亡くなったため、スコットランドに帰国してきます。そしてプロテスタントを国教として承認するが、自分の家庭ではミサの挙行を許可してほしいと、涙でもって懇願しました。多くの者が同情心を持ちます。しかしノックスは「一つのミサは1万の武装した敵よりも恐るべきもの」として、断固反対したのです。実はこのメアリこそ、プロテスタント撲滅を秘かに目論む女性であったため、ノックスの取った態度がスコットランドの宗教改革を成功に導くこととなったのです。
晩年のノックスは、教会の教壇に上がる時は人の助けを必要としても、説教が進めばまるで教壇から飛び降りるかのように情熱をもって語ったといわれています。
今、天の切なる願いは超宗教議会を創設することです。絶対信仰で取り組めば、ノックスの時のような勝利がもたらされるに違いありません。
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次回は、「アウグスティヌス」をお届けします。