日本人のこころ 63
紫式部『源氏物語』(中)

(APTF『真の家庭』284号[2022年6月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

物語を読むのは心を知るため
 古文の授業で「源氏物語の本質はもののあはれ」と習ったことと思います。これは、近世日本の知の巨人、国学者の本居宣長が唱えたものです。儒学が官学の江戸時代、『源氏物語』は淫らな作品だと敬遠されていました。67歳で『源氏物語玉の小櫛』を著した宣長は、儒学者の林羅山、荻生徂徠らが、源氏を好色的と排斥する中、物語の根底には「もののあはれ」があると唱えます。今回は宣長の源氏論を踏まえ、人にとって物語とは何かを考えたいと思います。

 日本人、日本文化の本質を探究した宣長は、『古事記』に続いて『源氏物語』を文献学的に研究し、これこそ日本人の心を深めた代表的な作品だと評価するようになったのです。これについては、現代の知の巨人、小林秀雄がライフワーク『本居宣長』で興味深いエピソードを書いています。

 宣長の『古事記傳』について質問するため、民俗学者の折口信夫(しのぶ)を訪ねたところ、別れぎわ折口が「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」と語ったというのです。それから、小林の脳裏には「宣長という謎めいた人が、私の心の中にゐて、これを廻つて、分析しにくい感情が動揺して」しまうようになります。

 宣長は、古代人の心をそのまま感じようと、例えば、彼らと同じように天照大御神が太陽であると「極めて自然に考へ」信じようとします。そういう姿勢で古典を研究した宣長は、文学は「如何に生くべきかという道であった」と悟ります。文学は自分を知ること、それはいかに生きるかを知ろうとする、人間の根源的な性質だと分かったのです。そこで、外来の「からごころ」(漢学)を取り除き、「やまとごころ」(国学)とは何かを求めるようになります。そして小林秀雄は「宣長は、源氏を研究したといふより、源氏によつて開眼したと言つたほうがいゝ」とまで述べています。

 宣長は紫式部の『源氏物語』を、「歌物語」「夢物語」と呼んで、「もののあはれ」という日本的情緒の遍在性を感知していきます。つまり、源氏の本筋は和歌にあり、それを物語りでつないだということです。中国から漢字と律令という官僚制を学んだ日本人は、仕事は漢文でしながら、思いは和歌で表現するようになります。これは、中国の官僚が漢文と漢詩を使ったのと同じです。

 心は表現して初めて分かるものです。言葉だけでなく表情や態度などの非言語表現も含め、外に表すことで、それが私の思いだと感知できるのです。それが人間の自己発見で、それを繰り返すことにより、人は成長していきます。自己発見が自己創造であり、その積み重ねが歴史となります。

 宣長は生涯で1万首以上の和歌を詠んでいます。寝食を忘れるほどに和歌が好きで、「僕の和歌を好むは、性也。また癖也」と述べていますので、今の私たちがSNSを発信するような感覚で和歌を詠んでいたのでしょう。

 ところで、物語とは何でしょうか。宣長は「物語を読むのは人のこころを知るため」と言っています。縄文時代の口承文学の時代から、私たちは人に思いや考えを伝えるため、物語を語り続けてきました。それは、脳の機能から物語にしたほうが記憶しやすいからで、物語とは事実の関連によって成り立つからです。それがやがて文字を獲得して、説話文学として発達します。

▲本居宣長四十四歳自画自賛像(部分) 安永2年(1773年)ウィキペディアより

もののあはれ
 「もののあわれ」とは何でしょうか。人は喜びや悲しみで感極まったとき、「あぁ」というため息を漏らします。この「あぁ」が「あはれ」で、宣長は「『あはれ』といふは、もと、見るもの聞くもの触るる事に、心の感じて出づる歎息の声にて、今の俗言にも、『ああ』といひ、『はれ』といふ、これなり」(『源氏物語玉の小櫛』)と述べています。つまり、「もののあはれ」とは「人間の心の動き」で、他覚的にそれを知ることで、私自身の心も分かるようになるのです。「分かる」は「成長する」に通じ、その積み重ねが自分育てにつながります。

 藤原俊成(としなり)の歌に「恋せずば人は心もなからまし もののあはれもこれよりぞしる」(恋をしなければ、人は心が無いようなものだろう。もののあはれも恋をすることで知るのだ)。宣長が「もののあはれ」という言葉に注目するようになったのが、この歌とされています。

 宣長は「もののあはれ(を知る)とは、揺れ動く人の心であり、喜びでも悲しみでも、痛切な思いはやがて嘆息となり、それが共鳴や共感を求めてリズムを持ち綾を成すとき、歌や物語が生まれる」と述べています。

 恋愛感情は動物から受け継いだ本能的な心の動きですが、その感情の高まりに対して、人は恥じらいや自制、高ぶりなどいろいろな反応をします。多くは複雑な感情が入り混じったもので、自分でも何だか分からない、というのが思春期の思い出でしょう。

 それを言語化することで、分析することができます。それが自分自身を知るということです。最後に付け加えると、上記の「もの」は単なる物質ではなく、「こと」も含む広範な意味を古代では含んでいました。存在全てを表現する言葉です。『古事記』や『源氏物語』の価値を江戸時代に再発見した宣長に感謝しながら、日本の物語を読みたいと思います。

オリジナルサイトで読む