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教えは平易、実践を重視

(光言社『FAX-NEWS』通巻775号[2003年1月8日号]「四大聖人物語」より)

 『FAX-NEWS』で連載した「四大聖人物語」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。

 「一切の苦しみは自らがつくりだしたものだった。自然の掟(おきて)である中道に逆らったがために起こった苦しみであった」。大自然が教える中道の中に、調和と真の幸せがある――。釈迦はついに悟りを開いたのでした。この体験こそ、宗教としての仏教の歴史の始まりでした。出家してから6年、35歳。自身の欲望や苦しみはなくなり、ブッダ(仏陀)すなわち“悟りを開いた者”となったのです。彼の言葉によれば、「地でも水でも火でも風でもなく、この世でもあの世でもなく、太陽でも月でもないところ。それは来ることも去ることも留まることもなく、滅びることも生ずることもない。ただ苦しみの止滅があるのみである」。

教義の中心は「四諦」「八正道」

 自らの苦悩を止滅させる方法を見いだした後、人々にこれを説くために、修行者が多く集まって修行している鹿野苑(ろくやおん)に赴きました。そこにはかつて彼の元を立ち去った5人の行者もいました。彼は自分がブッダとなったことを明かし、修行者は過度の苦行を廃し、極端な道を避けて「中道」を進むべきことを説きました。5人は釈迦の教えを深く理解し最初の弟子になりました。

 彼の教義の中心をなすものは、「四諦(したい)」と「八正道(はっしょうどう)」でした。四諦とは苦悩の原因についての分析で、苦悩とは、病、老、死、愛する者との離別、手に入らぬものへの渇望、避けることができないものへの憎悪である<苦>。すべての苦悩は心身に執着することによって生じる<集=じゅう>、従って、理想世界を設定し、理想の境地、涅槃(ねはん)に至るため、欲望を消滅しなければならない<滅>。欲望を止滅させ、理想に到達する方法は八正道に従うことである<道>――というもの。

 八正道とは、人生の苦しみの原因になる「欲望」をなくすための八つの正しい方法で、(1)正しい見解・信仰を持ち<正見>(2)正しく思い<正思>(3)正しい言語<正語>(4)正しい行動<正業>をとり(5)正しく生活し<正命>(6)正しく努力し<正精進>(7)正しい想念を持ち<正念>(8)正しく精神統一をする<正定>――ことをいいます。段階が進むにつれて苦労が多くなり、日常生活の中で達成が難しくなり、さらなる努力や集中力が求められます。

仏教は広まり三大宗教の一つに

 釈迦の教えは平易で実践を重んじ、多くの弟子や信奉者を得て、カースト制度(身分制度)が厳しいインドでは考えられないような万人平等の仏教教団(サンガ)をつくりあげました。当時彼は36歳。その後、入滅までの45年間、北インドのガンジス川中流の地域を中心に布教の旅を続けます。弟子たちと共に、日々の糧を托鉢(たくはつ)に求め、分け隔てなく教えを広めていきました。

 彼は在俗の信者(教えは信奉するが出家をしない)をも受け入れ、彼らには日々の行動の指針として、(1)生きものを殺さない(2)与えられていないものを取らない(3)邪淫を行わない(4)偽りを言わない(5)酒を飲んで泥酔しない――という五つの戒めを定めました。

 弟子たちはインド各地へ、釈迦はインドで一番の強国のマガダ国へ布教に出かけ、教えを信じた国王は釈迦のために竹林の中に精舎(しょうじゃ)を寄進。ついでコーサラ国では大富豪が祇園(ぎおん)精舎と呼ぶ修行場を寄進し、ピンサーラ国王も熱心な信者となりました。

 釈迦は弟子たちを従えて12年ぶりに生誕の地カピラ城に帰り、釈迦族の集会で初めて説法、息子ラーフラやいとこをはじめ多くの者が弟子になりました。説法を終えた釈迦は王や王妃に送られて、再び布教の旅に出ます。

 釈迦が80歳のとき、チュンダという鍛冶工がささげた食事がもとで重い病気にかかってしまいます。「私のためサーラ双樹の間に、頭を北に向けて床を敷いてくれ、アーナンダ(釈迦のいとこ)よ、私は疲れた。横になりたい」と言い、体を横たえながらも、集まった僧たちに法を説くことをやめようとはしませんでした。釈迦は「一切のものごとは滅びる。汝(なんじ)の救いのために、たゆまず勤めよ」という最期の言葉を残し、静かに息を引き取ったのです。

 釈迦入滅後、その教えは仏教と呼ばれ、弟子や信者たちの努力によって、日本や韓国、中国、ミャンマー、スリランカそしてインドシナへ、さらには欧米にも広がり、世界の三大宗教の一つとして発展していきました。

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 次回は、「〈イエス編〉聖誕時、ユダヤの王と啓示」をお届けします。