2022.05.30 22:00
「性解放理論」を超えて(35)
ポスト構造主義とは~マルクス主義との類似性
人類は今、神とサタンの総力戦の中に生きています。
「統一思想」すなわち「神主義」「頭翼思想」によって生きるのか、神の言(ことば)を否定する思想を選択するのか…。
台頭する性解放理論を克服し、神の創造理想と真の家庭理想実現のための思想的覚醒を促す「『性解放理論』を超えて」を毎週月曜日(予定)にお届けします。
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大谷明史・著
五 ポスト構造主義を超えて
(一)ポスト構造主義とは
1960年代に、レヴィ=ストロース(Claude Levi-Strauss)を旗手として、フランスで構造主義が生まれました。構造主義の言う構造とは、人間が社会や世界を知る方法に関するモデル、すなわち思考の枠組みのことですが、構造主義は現実を変革するのではなく、ただ眺めるという態度になりました。そこで一つの構造が壊されて、新しい構造がつくられていくというようにして、変化する社会を捉えようとするのが、ポスト構造主義であり、後期構造主義として理解されています。
ポスト構造主義は、言語構造が人間と世界を決定しているという思想であり、その構造が権力、揺らぎなどによって、時代とともに変化していくと言うのです。
そのようなポスト構造主義は、マルクス主義、ダーウィニズム、フロイト主義を母体として生まれた思想です。したがってポスト構造主義は、言語的マルクス主義であり、言語的ダーウィニズムであり、言語的フロイト主義であると言えます。そしてその主張の要点は、人間は言語によって規定され、抑圧されているということです。
(1)マルクス主義との類似性
意識は言葉の産物
ポスト構造主義は、意識や観念から言葉が生まれるのではなくて、かえって意識や観念は言葉の産物であると見ています。そして人間が言葉を使用して、自由に思考しているのでなくて、言葉が人間を決定していると言うのです。すなわち、「心は言葉の産物である」ということであり、これは「心は脳の産物である」と言うマルクス主義を彷彿(ほうふつ)させます。正にこれは言語的唯物論と言うべきものです。
差異によって意味が生まれる
言語学者のフェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)は記号を二つに分けました。一方は、単語、フレーズ、イメージなどの音や形、すなわちシニフィアン(signifiant)であり、もう一方は、その意味としての、シニフィエ(signifié)です。ソシュールによれば、「言語には言語システムに先だって存在する観念も音声もないのです。あるのは、このシステムから生じる観念と音声の差異だけである(※1)」のです。ポスト構造主義はそのようなソシュールの観点を受け継ぎました。
キャサリン・ベルジー(Catherine Belsey)は「ポスト構造主義は体系ではない。それどころか、詳細に見てみれば、まとまりのある理論群でさえもない。いったいどうしたわけか。鍵になることばは差異である(※2)」と言います。そしてサラ・ミルズ(Sara Mills)は「ポスト構造主義は中心、核心、あるいは根拠といった観念ぬきで理論化をおこなう動きであったとみなすことができる(※3)」と言います。
初めに目的も意味もなく、差異があるだけで、そこから全ての意味が成立していると言うのですが、それは、目的はなく、事物の中にある対立物の闘争によって発展するという唯物弁証法と発想が同じです。これは言語的弁証法と見ることができます。
記号は人間の意識を離れ、自らの法則に従っている
哲学者の大城信哉(しんや)は「思考とは何らかの意味を持つ記号の運動にほかなりませんが、記号は自らの法則を持ち、自力で動いています(※4)」、「記号はそれを用いる人間の意識を離れ、自らの法則に従って自律的に動いているのです(※5)」と言います。これは生産力や生産関係の発展は人間の意志から独立しているという唯物史観と発想が同じです。
権力との戦い
ポスト構造主義は「文化とは、権力に見えない仕組みの権力システム」であると見て、権力の分析を行い、国家の在り方を批判し、現状を変えようとする徹底した意志を持つと言います。これは、マルクス主義が国家権力を悪として、敵視しているのと軌を一にしています。
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※1 キャサリン・ベルジー、折島正司(まさし)訳『ポスト構造主義』岩波書店、2003(20)
※2 同上(86)
※3 サラ・ミルズ、酒井隆史(たかし)訳『ミシェル・フーコー』青土社、2006(52)
※4 大城信哉著・小野功生(こうせい)監修『図解雑学・ポスト構造主義』ナツメ社、2006(50)
※5 同上(54)
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次回は、「ポスト構造主義とは~ダーウィニズムとの類似性」をお届けします。