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人生の苦悩を解くため出家

(光言社『FAX-NEWS』通巻762号[2002年11月10日号]「四大聖人物語」より)

 『FAX-NEWS』で連載した「四大聖人物語」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。

 釈迦は、本名をゴータマ・シッダッタといいます。一般には、シャカ族の聖者、シャカムニ(お釈迦様)、また「悟りを開いた人」という意味でブッダ(仏陀)とも呼ばれています。釈迦の生年については紀元前564年、あるいは同463年など、さまざまな説があります。

後は、偉大な王か
悟り開いた出家者か

 約2500年前、今のインドとネパールの国境に近いヒマラヤ山脈のふもとに、シャカ族が住む小国がありました。周囲はわずか760キロメートルほど(北海道の半分くらい)でしたが、農業と商業に恵まれ栄えていました。釈迦は、この国の国王シュッドーダナ王とその妻マーヤー王妃の間に長子として生まれました。

 母、マーヤー王妃は完ぺきな容姿を有し、美と徳に満ちた女性でした。伝承によれば、鼻に蓮の花をはさんだ白い大きな象が、彼女の右脇に触れた瞬間、受胎したということです。これは、その子が世界で最も偉大な王か、苦行の聖者になるという象徴でした。

 出産のために王妃は父親の故郷に向かいますが、その途中、ルンビニー園という所で釈迦が生まれます。

 経典によれば、釈迦は生まれてすぐ北に向かって7歩歩き、四方を見て「獅子(しし)が恐れと苦悩を知らぬように、自分は病と死に打ち勝つだろう」と宣言したそうです。この不思議な誕生の7日後に母、マーヤー王妃は亡くなり、マーヤーの妹マハーパジャーパティーが王妃として迎えられ、養育に当たることになりました。

 未来が分かるという仙人が宮殿を訪れ、生まれたばかりの釈迦を見て「偉大な王になるか、出家したのちに完全なる悟りを開きブッダとなって、教えを多くの人々に伝えるだろう。私はそれまで生きて彼の説法を聞くことができないのが悲しい」と嘆いたそうです。

 シュッドーダナ王は、預言どおり、釈迦がやがて出家するかもしれないという不安を抱えながらも、息子に王位継承の道を歩ませるべく、さまざまな帝王学を教えました。釈迦の性格は大変思慮深く、控えめで、父シュッドーダナはその性格を明るく王にふさわしいものにしようと試みたのです。釈迦は熱心に勉強し、剣術や弓術にも励み、文武に秀でましたが、父が願うような変化はありませんでした。

 養母は限りない愛情を注いでくれ、苦労も困難も知らずに育ちましたが、幼くして母親と死に別れた釈迦は、人間の生命の尊さやこの世のはかなさが身に染みて感じられ、物思いにふけることが多くありました。

老、病、死は避け得ぬものと気付く

 21歳のころ、釈迦は、王の側近の娘ヤソーダラーと結婚、翌年には息子が生まれました。釈迦は「ラーフ(障害)が生まれた。束縛が生まれた」と言って、ラーフラと名付けました。釈迦は妻子とともに宮殿であらゆる快楽を満喫する生活をしますが、幸福そうに見えたのは束(つか)の間で、やがて彼は再び苦悩し、物思いに沈むようになります。

 そして29歳の時のこと。釈迦は、王には内緒で町へ向かいました。そこには、それまで一度も見たことのない光景がありました。さげすまれ世話をする人もなく、身動きもままならない衰えた老人の姿でした。若い釈迦は深く考え込んでしまいます。

 ある日、釈迦は別の方向に行きました。そこには死に際して何の安らぎもない、息絶え絶えの病人を見たのです。さらに他日、町で、火葬場に向かう葬列と、死人を囲んで嘆く人々に出会います。衝撃を受けた釈迦は人生の苦悩について、「老いと病と死とはすべての人を襲う、避け得ないものである」と気付くのです。

 この三つの問題を解決しなければ、人は幸福にはなれない。この世の不幸や苦しみの原因は、ここにあるのだ――。釈迦は初めて人生の真実に直面したのです。

 釈迦はもう一度、町へ出ました。そこで目にした光景が、人生を変えることになるのです。それは、家族を捨てて出家し旅をしながら修行をする行者の姿でした。「私は、苦しみも老いも死もない至福の境地を求め、救いを得るために、一所不在の生活をしています」と、その行者は言うのです。

 宮殿での歓楽に満ちた生活を送りながらも、釈迦は長い間探し求めていた人生の光をやっと見いだして、ついに家族に別れを告げ、出家を目指す決心をするのです。

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 次回は、「瞑想深め『我』への執着断つ」をお届けします。