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一代でイスラム教国築く

(光言社『FAX-NEWS』通巻755号[2002年10月10日号]「四大聖人物語」より)

 『FAX-NEWS』で連載した「四大聖人物語」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)

▲天使から啓示を受けるムハンマド(ウィキペディアより)

 マホメット(ムハンマド)たちは、アラビア半島に同盟を広め、敵対する者には、聖戦(ジハード)と呼ばれる戦いを挑みました。630年、ついにイスラム軍はメッカの町を包囲、メッカの南西部での「バドルの戦い」では、神の加護により奇跡的な勝利を収めます。神への感謝の印としてラマダーン月(イスラム暦9月)の断食が課され、この戦いを境として、彼の教えは「イスラム教(神に対して絶対に服従する宗教という意味)」といわれるようになります。

メッカ無血征服、偶像すべて破壊

 「クライシュ族との長い苦しい戦いも、数年のうちに必ず勝利に終わるであろう。神への道を邪魔する者は絶対に許さぬ」。マホメットは、戦線の先頭に立って剣をふるい、つぎつぎと征服の範囲を広めていきました。そして、ついに「ヒジュラ」(メッカからメディナへの遷都)から9年目の630111日、彼は1万のイスラム教徒を率いてメッカに攻め込みます。すでにメッカに抵抗する気力はなく、無血征服を果たすのです。マホメットは威儀を正してカーバ神殿に乗り込み、360もの偶像を次々に破壊。いままでの長い戦いは、この日のためにあったのです。これにより全アラビア人の心のふるさとともいうべきカーバ神殿を、イスラム教の最高神殿として尊び、多神教は永遠に禁止されました。

 メッカ市民はすべて解放され、メッカ滞在の15日間でほとんどの市民が改宗したのです。その後、メッカ南方での勝利もマホメットの名声をより高め、多くの部族が次々にイスラムの教えを受け入れていきました。こうしてアラビア半島全域にイスラム教が広まり、イスラム国家が建設され、平等の原則に基づいてコーランの律法だけに従ったのです。

 マホメットはメッカに2か月滞在し、3月にメディナに帰還します。度重なる遠征と数々の心労で肉体的にも衰えはじめ、彼が病気の間は、最も古い弟子アブー・バクルに指揮を委ねました。6323月、自分の命を奪う病がかなり進んでいるのを悟ったマホメットは、自ら指揮をとってメッカに巡礼(別離の巡礼)します。従う信徒は4万人以上。アラファートの丘で最後の説教が行われました。

 最後の説教で、弟子たちに、彼の死後、分裂しないよう説き、神が唯一の存在であることと、イスラム教徒は同胞であることを確認させ、婦人の権利を留意することを信徒たちに命じ、血の復讐の廃止を宣言したのでした。

 その年の68日、メディナにおいて、マホメットは多くの信者に見守られ、静かに息を引き取りました。63歳で亡くなるまで、彼は50回以上も戦争をしましたが、無政府状態にあって貧しさにあえいでいた砂漠の民を統一し、一代のうちに大イスラム教国の基礎を築きあげるためには、剣の力を借りないわけにはいかなかったのです。

コーランの根本精神は唯一神への絶対信仰

 彼の死後、イスラム勢力の拡大はカリフと呼ばれる後継者たちによって受け継がれました。イスラム軍はジハードという遠征を繰り返し、4代目カリフのアリーの時代には、西は現在のリビアから、東はアフガニスタンまでを支配下に収めました。

 コーラン(イスラム教の基本的な聖典で第3代カリフのときに統一された)に記されているイスラム教の教えの根本精神は、唯一の神に対する絶対の信仰であり、神の慈悲の力を徹底して信じることにあります。

 具体的には、(1)メッカの方向に向かって13回(後世の法律書では5回)の礼拝を行う。(2)ラマダーンの月には、1か月間の断食をする(断食といっても1か月間何も食べないのではなく、日没から翌日の日の出までは自由に食べることが許される)。(3)カーバ神殿へ巡礼に行く。(4)豚肉は食べない――などを規定しています。

 現在、イスラム教徒は西アジア、アフリカ、東アジアを中心に10億人に上るといわれています。イスラム教の礼拝堂へ行けば、白い礼拝帽をかぶった信者たちが、コーランを声を上げて読みながら、メッカの方角に向かって熱心に礼拝し、互いに「アッサラーム・アレイコム(あなたのうえに平和がありますように)」「ワ、アレイコム・サラーモ(あなたのうえにこそ平和がありますように)」とあいさつを交わしている姿を見ることができるでしょう。

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 次回は、「〈釈迦編〉人生の苦悩を解くため出家」をお届けします。