2022.05.15 17:00
第1部 宗教改革者
⑤ヤン・フス
岡野 献一
『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)
殉教は宗教改革に火をつける
『原理講論』に「ウィクリフとフスのような改革精神を抱いていた指導者を、極刑に処するようにまでなったので、このときからプロテスタントの宗教改革運動が芽を吹きだしはじめたのである」と記されているヤン・フス。宗教改革の先駆者となったヤン・フスは、1369年にボヘミアの裕福な農民の家に生まれました。
教会の法は新約聖書
生活の基準は清貧
フスが活躍した14世紀のボヘミア地方は、教会聖職者の世俗化が著しく、その腐敗ぶりを糾弾する説教者が多く現れました。彼らは、聖書のみ言こそが人生の基礎とならなければならないと強く訴えたのです。
1383年、ボヘミアの王女アンナがイギリス王リチャード2世と結婚したことを機に、両国は交流を深めるようになります。ボヘミアの学生はオックスフォード大学に憧れ、留学生が多く出ました。当時のイギリスは、「信仰の基準は聖書にある」と主張するウィクリフの学説と著書が人気を博し、その影響はすぐプラハ大学に波及していきます。その立て役者がヤン・フスでした。
フスはプラハ大学に学び、持ち前の勤勉さによって司祭となり、やがてプラハ大学の哲学科長を経て、1402年に同大学の学長に就任します。彼の宗教的情熱と愛国心はあつく、火を吐くように語る説教はボヘミアの大衆の心を強くとらえました。彼は学長就任のころからウィクリフの宗教書に深く傾倒し、その教えを広めることに力を注ぎます。そしてウィクリフと同じく、教会の頭はローマ法王ではなくキリストであり、教会の法は新約聖書であり、信仰生活の基準は、キリストに倣った清貧の生活でなければならないと主張しました。
フスは、ペトルス・ロンバルドゥスの命題集に関する『注解書』を刊行しますが、それはウィクリフの思想を受け継いだもので、この書によって名声を博しました。
しかしウィクリフの学説が教会から危険視され、プラハ大学でも断罪されるようになり、また、フス自身が聖職者に対する痛烈な批判をするに及んで、それまでの彼に対する好意は、徐々に憎悪に変わっていきました。
教会の腐敗批判
免罪符を否定
当時のカトリック教会は、法王庁が1377年に南仏アビニョンからローマに帰還したものの、翌78年からは別の法王がアビニョンに立てられ、いわゆる「大シスマ」と呼ばれる混乱期に突入していました。法王が複数立てられる混乱期は1417年まで続きます。この混乱を収拾するために、カトリック教会は公会議の決議に権威を与え、全信徒はその決議に絶対服従するよう強要される時代を迎えていました。強制権を発動しない限り、当時の教会の分裂状況を収拾するすべがなかったからです。
そんな時代に、教会の腐敗ぶりを痛烈に批判するウィクリフが断罪されるのは必至で、また、その教えがボヘミアに流入することを抑えようと、教会側はウィクリフの著書を焼いて「破門宣告」を出したのです。そのためにプラハは大騒ぎとなり、フスは以前よりまして尊敬を集め、大衆に支持されました。
フスは、当時の法王が出した「免罪符」の効力を否定し、フスの主張を支持する民衆は、法王の勅書(ちょくしょ)を焼き捨てたのです。そこで法王は「免罪符」に反対した青年3人を死刑に処しました。このようなボヘミアでの宗教紛争はヨーロッパ全土に動揺を与えます。
そのような中にあって、ついにフスは審問にかけられることになったのです。教会はフスに対してその所説を取り消すよう要求しましたが、フスは頑として受け付けません。ついに1415年7月6日、フスは火刑を宣告されます。それを聞いたフスはひざまずき、教会側のために許しを祈り、教会側は「われらは汝の霊を悪魔にわたす」と叫び、フスは「わが霊を主イエスにわたす」と応じたと言われます。火刑台の火が燃え始めたとき、所説の取り消しを迫られますが、フスはそれを拒み「生ける神の子よ、われを恵みたまえ」と歌いつつ殉教していきました。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん。もし死なば、多くの実を結ぶべし」。真のお父様の生涯がそうであったように、いつの時代でも真実を訴える者は迫害されるものです。フスの殉教は、後の宗教改革に火をつける発端になったのです。
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次回は、「ジロラモ・サヴォナローラ」をお届けします。