2022.05.08 17:00
第1部 宗教改革者
④ジョン・ウィクリフ
岡野 献一
『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)
聖書を英訳 人々の信仰形成に影響
『原理講論』に、「14世紀に英国のオックスフォード大学の神学教授ウィクリフ(1324-84)は聖書を英訳して、信仰の基準を法王や僧侶におくべきでなく、聖書自体におくべきであると主張すると同時に、教会の制度や儀式や規範は聖書に何らの根拠をおくものでもないことを証言して、僧侶の淪落…を痛撃した」と記されているジョン・ウィクリフ。彼は宗教改革の先駆者として「宗教改革の暁(あかつき)の明星」と呼ばれます。
神が唯一最高の君主
地位、特権は神から
ウィクリフは英国ヨークシャーのヒップスウェルに生まれました。彼はオックスフォード大学のバリオル校で学び、その後、同大学教授となり、1360年には短期間ですが学長を務めました。72年、神学博士の学位を取得して神学を教えますが、その学識の高さと人格にひかれて、聴講生がいつも講堂にあふれたといいます。
彼の活躍した時代は、ローマ法王権の衰退が著しく、1309年にはローマから南仏アヴィニヨンに法王庁が移され、約70年間、歴代の法王はフランス王の拘束を受けて、捕虜のような生活をしていた時代です。そのような時代圏にあって、6世紀以来、ローマ法王庁の支配の下に置かれていたイギリス教会においても、当時の信仰のあり方に疑問を呈する風潮が現れてきました。
1376年、ウィクリフは、教会が巨万の富を有し、法王が諸国の内政に干渉していることに対し、教壇から非難しました。その要旨は、神こそが唯一最高の君主であり、人に与えられた地位や特権は、すべて神から委任されたものにすぎない。もし人が神から委任された職務に対して誠実に取り組まないならば、すべてを没収し、国家の君主に移譲すべきであるというものです。
ウィクリフの主張は民衆に歓迎され、清貧の生活に徹していた托鉢(たくはつ)の修道士に支持されます。
当然、ウィクリフの言動は、法王、高位聖職者、財産をもつ修道会から敵視されることとなります。翌77年にロンドン司教はウィクリフを審問しようとしますが、貴族の庇護(ひご)や民衆の支持によって審問は断念されます。同年、法王からウィクリフの逮捕と審問を命じる五つの回勅(かいちょく)が出されますが、そのときも宮廷の庇護、民衆のさらなる支持の高まりによって、難を免れることができました。
信仰の基準は聖書
教会の頭はキリスト
ウィクリフの改革への志はこのころからより強固なものとなり、数多くの著述を残します。信仰の基準は法王や聖職者を中心とする教会にあるのではなく、聖書にある。また、教会の頭は法王や枢機卿(すうききょう)ではなく、キリストであるというのがその論旨でした。
彼はイギリス国民に正しい信仰を持たせたいという動機からラテン語聖書を英訳します。新約をウィクリフが、旧約を友人ニコラス・ド・ヒアフォードの助力によって、1382年から84年にかけて完成させました。その後88年にウィクリフの弟子ジョン・パーヴェーによって改訂され、広く普及するようになります。イギリス国民はこの英訳聖書によって聖書に親しむことができ、信仰形成において大きな力となったのでした。
さてウィクリフは神のみ言を宣べ伝えるために「貧しい説教者」と呼ばれる宣教師を各地に遣わします。彼らは清貧の生活に徹し、イエス様が弟子を遣わしたときの戒め(マタイによる福音書10章)にならいます。粗末な衣服をまとい、裸足で杖をもち、またフランシスコ会の説教者のように二人ずつ1組となって、ウィクリフの書いた小冊子を配布しながら町々を伝道してまわりました。これを「ロラード運動」といいます。彼らの献身的活動は、イギリスの津々浦々にまで及びました。
ウィクリフの死後、ロラード運動は迫害の嵐の中で何度か危機に瀕しますが、16世紀まで残存し、またウィクリフの影響は東欧のボヘミアへ波及して、宗教改革に大きな影響を及ぼしたのです。
彼の死から31年後の1415年5月4日、コンスタンツ公会議は、ウィクリフに対して異端宣告し、遺骸を墓から掘り起こして火刑に処し、その灰を川に捨てました。死してなお、受難の道を行ったウィクリフですが、その業績は永遠に歴史に残るものとなったのです。
まるでみ旨成就のため精誠を尽くされたイエス様や真の父母様、および歴代の預言者たちのような生き方をしたウィクリフでした。
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次回は、「ヤン・フス」をお届けします。