2022.05.01 17:00
第1部 宗教改革者
③フルドリヒ・ツウィングリ
岡野 献一
『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)
「肉体を殺すとも霊魂を殺すことあたわず」
――預言者の死同様
『原理講論』に、「ドイツにおいて…ルターを中心として宗教改革運動が爆発したのであった。この革命運動ののろしは次第に拡大され、フランスではカルヴァン、スイスではツウィングリを中心として活発に伸展し、イギリス、オランダなどの諸国へと拡大されていった」と述べられているツウィングリ。彼はスイスの宗教改革を推し進め、後世に多大な影響を与えました。
ルターとともに宗教改革の両雄
ツウィングリ(1484-1531)はアルプス山腹のウィルトハウス村に生まれました。彼は教育を受けるために、カトリック司祭である母方の叔父に引き取られ、当時一流の人文主義者ヴェルフリンのもとで学び、その後ウィーン大学、バーゼル大学で学びます。そして18歳にしてバーゼル市の聖マルチン学校の教師となりました。
3年後、トマス・ウィッテンバッハという人物がバーゼルを訪れます。その人物は、ルターが95か条を発表する以前から免罪符の悪弊(あくへい)について批判しており、その講義を聴講したツウィングリは深い感銘を受けます。以降、彼は神学研究に専念し、22歳で牧師になり、29歳からギリシャ語の研究を始め、ヒエロニムスやアウグスティヌスなどの著書を愛読します。
こうしてツウィングリは宗教改革の担い手としての準備を整えます。ルターが95か条を発表した1517年の翌年、免罪符の説教者を自任するサムソンがスイスにやって来ました。そのときツウィングリは熱弁をもって攻撃し、サムソンはスイスから退去を余儀なくされます。申し合わせたかのように同じ時期に、ドイツにルター、スイスにツウィングリという宗教改革者の両雄が現れたのは、神の導き以外の何ものでもないでしょう。
1519年、ツウィングリはチューリッヒ市の主任説教者に指名されて転任。そこで直ちにマタイ伝から始めて聖書全巻の講解をしながら、またヘブライ語の研究を開始するなど、勤勉な日々を過ごします。ツウィングリがルターの著作に接したのも、ちょうどこのころでした。
政治的手腕傑出
改革に多くの成果
改革者中で、ツウィングリの最も優れた点は政治的手腕に傑出していたことでした。スイスは歩兵の名声高く、ローマ法王や近隣諸侯は、スイス歩兵の力を借りようと傭兵(ようへい)制度を設け、スイス人もこれに喜んで応じていました。しかしその制度の故に国民の品性が落ち、ときには同胞同士が殺傷し合うという不道徳な状況を招いていました。ツウィングリはその制度の全廃を訴えます。彼の意向を受けてチューリッヒ当局は1521年5月、傭兵制度の廃止に踏み切りました。このように彼は政治方面の改革にも着手し、成果を挙げたのです。
改革は前進しつつありましたが反対勢力の抵抗もあったため、ツウィングリは1523年1月23日、チューリッヒ市で公開討論会を開催します。彼はカトリックの代表者ファーベルを論破し、ルターの95か条にも比すべき67か条の改革案を発表します。その要点は、①聖書中心②キリストが中核③カトリック教会制度の廃止④教会は独立自治をもって建設すべき――という内容でした。こうしてスイス宗教改革は速やかに実行に移され、聖職者は妻帯し、聖書もラテン語ではなく自国語で読み、教育機関も公立学校になっていきます。
続いて1523年10月に第2回討論会がもたれ、聖像使用の禁止とミサの犠牲的性格が否定され、1524年1月の第3回討論会を経て、同年6月から7月に聖像、聖遺物の廃棄、さらに同年12月には修道会財産が没収され、代わりに学校が設立されました。こうしてツウィングリによる改革運動は推進されていったのです。
しかし彼の宗教改革を歓迎しない人々もいました。それが傭兵を諸国に送って生計を立てていた山野地方の人々です。彼らはカトリックを中心に同盟を結び、改革運動に反抗し始めます。1529年6月の戦争ではカトリックと調停に至りますが、2度目の1531年10月の第二次カッペル戦争では、改革側が敗北に終わり、ツウィングリも戦死します。彼の全身は分断され、遺体は火で焼かれ、その灰は豚の灰に混ぜて飛散されます。この戦いで彼の息子、兄弟ら、一族郎党ともども戦死しました。
彼は亡くなるとき「彼らわが肉体を殺すとも、わが霊魂を殺すことあたわず。故にわれこれをもて災害となさぬ」と叫んだといわれます。彼の死は、まさに預言者の死と同様だったと言えます。
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次回は、「ジョン・ウィクリフ」をお届けします。