2022.04.24 17:00
第1部 宗教改革者
②ジャン・カルヴァン
岡野 献一
『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)
信念の人、預言者の生き方
宗教改革に使命感
『原理講論』に、「ドイツにおいて…ルターを中心として宗教改革運動が爆発したのであった。この革命運動ののろしは次第に拡大され、フランスではカルヴァン、スイスではツウィングリを中心として活発に伸展し、イギリス、オランダなどの諸国へと拡大されていった」と述べられているカルヴァン。彼は宗教改革の神学を体系化した最大の人物であり、近代の民主主義社会が形成されるにあたって大きな影響を与えました。
24歳で転機
突然の回心
カルヴァン(1509-1564)は北フランスのイワヨンに生まれました。宗教改革が起こったのは、彼が8歳の時です。また彼が後世に大きな影響を与える『キリスト教綱要』を書いたのは弱冠26歳の時でした。
ルターとカルヴァンの違いは、第一に自らの神学を体系化したか否かです。ルターが体系的な神学を残さなかったのに対して、カルヴァンは神学を体系化しました。さらにもう一つの違いは、宗教と政治の関わり合いに対するとらえ方の違いです。ルターは「二王国論」と言って、霊的領域は教会、世俗的領域は国王が統治すべきであるという考えを持っていました。しかしカルヴァンは、教会は国家権力から独立すべきであるという考えを持っていました。簡単に言えば、国王でさえ神のみ言によって統治されるべきであるという徹底した考え方です。この信仰によって全領域を神の下に服従させようとするカルヴァンの思想からピューリタン(清教徒)が生まれ、社会構造を根底から変革させることになるのです。
このような徹底した思想をカルヴァンはいつ持つようになったのでしょうか。彼の転機は突然やってきました。それは24歳の時とされ、突然の回心(かいしん)と呼ばれます。彼は詩篇注解の序文で「最初は教皇の迷信に大いにしつこくなじんでいて、そんなに深い泥から身を引き出すことは容易でなかったときに、年齢の割には非常にかたくなになっていた私の心を、突然の回心によって従順へと導いてくださった」と述べています。
迫害にくじけない
徹底して聖書主義
彼は突然の回心の後、徹底した改革思想を持つようになりました。そのころ親友のニコラ=コップのパリ大学学長就任演説が行われ(1533年11月1日)、それが改革的内容だったため大問題となります。草稿したのはカルヴァンだということで、彼ら2人はフランス国外へ逃亡するはめになりました。神のみ旨のため永久に母国を失ったのです。カルヴァンは異郷の地でキリスト教入門書を執筆しますが、それが『キリスト教綱要』です。カルヴァン以前には真の意味でプロテスタント神学を体系化した書籍がなかったため、この書は人々に注目されるところとなり、飛ぶように売れました。当時すでに行き詰まり始めていた宗教改革に新たな息吹を吹き込み、人々を鼓舞(こぶ)するものとなったのです。
カルヴァンはスイス・ジュネーブを拠点に、プロテスタント教会の基盤を整えていくための書籍を執筆していくことが神の願いであると感じ、使命感をもって執筆活動を続けました。彼の徹底した性格は、ばか騒ぎを禁じ、劇場、音楽堂を閉鎖し、一時ジュネーブは死の町と化したといわれるほどでした。窮屈さを感じた人々から批判や迫害が起こりますが、それでもくじけずに信念を貫き、結果的にカルヴァンは、その徹底した聖書主義の主張によって宗教改革を定着させていったのです。
カルヴァンの徹底ぶりは、神の召命を受けた歴代の預言者の生き方であり、いかなる苦難をも信念で越えていかれた真のお父様の生き方と通じるものです。
カルヴァンが病床において、ジュネーブの牧師と交わした最後の言葉は次のとおりでした。
「私の死後、現在の事業をやり抜いていただきたい。決して意気喪失してはならない。…神はこの共和国とこの教会とを、敵の脅かしのもとから救ってくださるだろうから。あなたがたの間から不和を取り除き、互いの愛をもって受け入れ合いなさい。…事態はおびただしい極度の困難に満ちていたが、この務めを遂行して行くうちに、主が私の労苦を祝福してくださるということがやっと分かってきた。…あなたがたもその召命に堅くとどまり、定められた秩序を守り抜いていただきたい」。
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次回は、「フルドリヒ・ツウィングリ」をお届けします。