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霊界の実相と地上生活(36)
神様の実存

 36家庭の李相軒(イ・サンホン)先生(1914~1997)が霊界のさまざまな事実を証しされたメッセージ、「霊界の実相と地上生活【霊界の様相編】」を毎週土曜日配信(予定)でお届けします。

世界平和統一家庭連合

(光言社刊『霊界の実相と地上生活』より)

第二部 天上天下の救世主・真の父母
第一章 神様の実存
一 神様の実存

李相軒先生

 神様は、存在世界にある被造物のように、ある空間を占め、ある形を持っているお方ではありません。しかし、神様は厳然と実存します。では、私たちはどのようにして神様の実存を知ることができるでしょうか。神様は(韓国語では)文字どおり一人しかいない「主」ですが、果たしてそのお方はどのようなお方でしょうか。神様は私たちの考えや想像によって理解できるお方ではありません。触れることも、つかむことも、把握することもできず、ある限定された空間にだけ現れるというお方でもありません。神様は遍在し、全知全能であられるため、一言で表現することはできないのです。

 私、李相軒は地上生活をしながら、引っ掛かってすっきりしない難解な問題に直面することがよくありました。その時はいつも、まるでロケットで月世界に行ってそこを研究するかのように、霊界に行って神様に直接尋ねながら研究したいと思いました。疑問に思ったことも霊界に行って神様に会えば、すべての問題を正しく分析して研究できると思ったのです。神様には、それらを分析する材料が十分にあると思っていました。それが私の夢であり、願いでした。

 しかし、私はここ霊界に接してみて、この世界が地上の世界とは比べものにならないほど膨大であることが分かりました。こちらは、あちこちに分析の材料は散在していますが、私の知性と理論では到底判断することも理解することもできず、分からないことがあまりにも多いのです。それゆえ、これらのことを何人かで分担して分類し、地上人にくまなく知らせていくことがいいのではないかと思います。

 その中でも、最も分析しにくい存在が神様です。私は地上で肉身を持って生活していたとき、神とは時間と空間を超越して現れるものであると理解していました。しかしその疑問は、こちらにおいても地上の生活のときと同じです。神様は分析することもできないし、また分析されるようなお方でもありません。では、いったい神様はどのようなお方でしょうか。どこからどこまでが神様の本質であり、どこからどこまでが神様の本来の姿なのでしょうか。この世界で私が把握した神様の姿を、極めて不十分ではありますが、地上の人々に概括的に紹介しようと思います。

 神様の具体的な姿は、一言で説明することはできません。そのお方の姿を他の実体、例えば光や音、炎や湖などに比喩して説明することはできます。つい先ほど、私は神様から「あちこちの様々な様子を十分に研究せよ」という命令を受け、だいぶ遠方まで行って、そこでの自然現象と実情を注意深く調べてみました。そこの様子は今まで見たことのない、あまりにも素晴らしく不思議なものでした。私は「神様! なんと素晴らしく、なんと美しいのでしょう! これらをすべて神様が直接創造なさったのですか。これは私たち人間にとって、あまりにも偉大で驚くべき祝福です!」と感嘆しながら、感謝の祈りを捧げようとしました。するとまさにその瞬間、その場から炎のようなものが現れて私の全身を包んだのです。「相軒よ! そんなにもうれしいか」と、神様は炎の姿で現れて私を呼ばれたのです。

 では、この神様は先ほど私に命令した神様と同じお方でしょうか。確かに同じお方です。すると、神様が時間と空間を超越して現れたのか、それとも全天地が神様御自身の体なのか、私は神様の存在を明確に究明することができませんでした。しかし、あちこちで神様が私を呼ばれるときの姿は、明らかに同一ではありません。では、あの炎はどんな存在なのでしょうか。私を呼ばれるときの神様と、他の人を呼ばれるときの神様は明らかに違うように感じられました。それだけではありません。神様が同じ場所で同じ声で呼ばれたとしても、皆がみなその声を同様に聞けるというわけでもありません。かといって、私一人だけが聞くのではないのです。

 神様はきらびやかな光彩の中で、ある時は厳格な威厳ある存在として現れ、ある時は全身が溶けてしまうような愛として現れ、またある時はしなやかで柔らかい声の主人公として現れます。いったいこのお方の本質は何でしょうか。そしてまた、ある時はひっそりとした、かすかな明かりとして静かに顕現します。その時、その明かりの中に座っている食口(シック)たちは、ぽかぽかとした春の日、まるで幼子が暖かいかげろうの中でまどろむような表情を浮かべています。

 そして、食口たちが「神様……」と祈ったり、大きな声で「神様!」と呼ぶと、美しい明かりは、こまのようにぐるぐる回って答えたりします。またある時は、その美しい明かりがすーっと消えたかと思うと、花火のような波となってパノラマのように広がり、色とりどりの清らかな歌声となって現れたりもします。このような場合、その中にいる人たちは、地上生活では到底見ることも表現することもできない恍惚(こうこつ)たる清雅な姿に変身してしまいます。そして神様の華麗なその光彩は、ある場所からはるかかなたに瞬間的に移動しても、常に同じ姿として現れます。このように、神様が様々な姿で現れるため、全天地は神様の形状と姿で満ちあふれています。このような神様の姿をどのように表現したらよいのでしょうか。これは、私の知性では到底及ばない領域のようです。

 神様が怒ったり、笑ったり、喜んだりするときは、どんな姿で現れるのでしょうか。一言で要約すれば、神様は質量を持ち、限定された空間を占めるような方ではありません。もしも神様が限られた空間に一定の体積などを持つお方であるならば、数多くの科学者たちがやって来て、分析するために神様のあちこちをもぎ取っていくでしょう。そして、もしも神様を知性で完全に分析できる人がいるとするならば、その人はまさに神様になるはずです。

 しかし、神様は触れることもつかむこともできません。神様のきらびやかな光をつかむことができるでしょうか。決してつかめはしません。その光を容器に入れることができるでしょうか。どんな容器にも入りません。また、そのきらびやかな光をカメラに収めることができるでしょうか。どんなカメラでもそれを収めることはできないのです。もしも誰かがそれを試みようとするならば、神様の光はあっという間に消えてしまいます。ですから、もしも神様を人間の頭脳で判断できると考える人がいるならば、その人は世の中で最も愚かな者となるでしょう。もしも神様を見たという人がいるならば、その人は大層驕慢(きょうまん)な者となるに違いありません。果たして、どこからどこまでが神様の本来の姿なのか、私はそれを正しく認識するパラダイムを持ち合わせていません。こんなにも膨大な神様の姿を正しく表現する方法は、私には先天的に与えられていないようです。

 そして特に留意しておかなければならないことは、このような神様が私たち人間に訪れるとき、個人個人に同じ姿で顕現することはないという点です。神様のきらびやかな光は、ある人には暖かく現れ、ある人にはそれが温和に現れ、ある人には優しく、ある人には情愛深く、ある人には華麗に現れます。しかし、それが全部ではないのです。例えば、神様はある子女に教え諭したいとき、静かな明かりの中に形容しがたい威厳を漂わせて彼の中に入り込み、彼の一時的な行為を悔い改めさせるときもあります。

 神様は、どんな文字でも言語でも表現できません。地上で最高の名声を持った科学者であっても、神様を正確には説明できません。もしも科学者が神様を研究しようと試みるならば、彼は神様の光の中で自分自身を完全に失って同化してしまうことでしょう。

 私たちは、そのお方をただ漠然と「神様」と呼ぶことができれば、それが一番幸せかもしれません。私たち人間は、神様を深く掘り下げれば掘り下げるほど時間の浪費に終わるだけです。神様は人間の知性で究明できるお方ではなく、人間の理性と理論によって結論を下せるお方でもありません。天地万物のすべてを超越して存在する、大宇宙の主人なのです。私よりも神様についてもっと正確に表現できる文人がいるならば、私は彼にこの仕事を喜んで任せたいと思います。これが私の率直な心境です。私は「ああ、我が神よ! あなたはどのようなお方ですか」と叫びながら、完全に両手を挙げて降参し、白旗を振ってしまいました。

19991125日)

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 次回は、「上流層/中流層」をお届けします。


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