2022.05.08 22:00
選民史は復帰摂理の中心史
太田 朝久
太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。
神の復帰摂理は、まずアベルが信仰基台を立て、次にカインとの間で実体基台を勝利することによって「メシヤのための基台」をつくり、そこへメシヤを迎えて“万人救済”を展開していくというかたちでなされる、と「統一原理」は見ています。
したがって復帰摂理を完結するには、神に選ばれた中心人物(アベル)や中心民族(選民)が、信仰路程を開拓し、その勝利した基台の上でメシヤを迎え、全人類(カイン圏)を救済していかなければなりません。その道を開拓したのがイスラエル民族であり、イエス様の十字架以降においてはキリスト教徒でした。
この選民の歴史こそが、神の復帰摂理を理解するための「中心史料」(中心史)であるので、神の摂理を把握するには、選民以外の人類が織りなす一般史(周辺史)を、ひとまず中心史と区別しなければなりません。ゆえに歴史の同時性は、イスラエル史とキリスト教史とによって形作られているのです。
創世記編者、読者の目をイスラエルに引く
同様に、創世記は、神が人類に“救いの摂理はどのような原則をもって行われるか”を教示するために必要な内容(中心史料)を示すことに目的があるために、何から何までが人類歴史全体の詳細な叙述であるとは限らないということを、まず知っておかなければなりません。福音派の人たち(特に根本主義者)は、霊感説の立場から、創世記の内容は“忠実な歴史叙述である”と考える傾向性をもっています。
しかし創世記が複数の資料を基に、何度も編纂(へんさん)し直され、現行の聖書になったことは否定できませんので、創世記をそのまま人類史を忠実に書いた歴史書と見るのは行き過ぎだと言えるでしょう。やはり「統一原理」のように象徴的な歴史として解釈すべきです。
ところで創世記は、いくつかの資料を集めて出来上がった書物であっても、資料を雑然と意味もなく並べたのではなく、ある意図に沿って編集されています。聖書学者の主張によれば、創世記を最終的に編集したのは、いわゆる祭司グループと呼ばれる人々であり、その編集の痕跡として「トレドス」(系図)と呼ばれる編集句が、創世記に10回繰り返し登場します。
すなわち、2章4節の「これが天地創造の由来である」から始まって、5章1節「アダムの系図は次のとおり」、6章9節「ノアの系図は…」、10章1節「セム、ハム、ヤペテの系図は…」、11章10節「セムの系図は…」、11章27節「テラの系図は…」、25章12節「イシマエルの系図は…」、25章19節「イサクの系図は…」、36章1節「エサウの系図は…」、37章2節「ヤコブの子孫は…」の10の定型句です。
創世記に人類救済の歴史を保存
その編集の意図を分析すると、創世記は、人間始祖から始まった諸民族の起源に触れつつも、最終的には読者の注意をイスラエル(ヤコブ)へ集中させていることが分かります。
例えばアダムの息子にはカインもいるのに、カインの子孫については系図だけ残し、アベルの代わりに生まれたセツの血統へ関心が集中し、またノアの子孫の場合もセムの血統を除いて他は放棄しています。
アブラハムの子孫もイシマエルは放棄し、イサクの血統だけ残していますし、さらにイサクの子エサウは放棄し、ヤコブ(イスラエル)の血統だけを残存していくのです。
これについて『旧約聖書略解』は「創世記の編集者は、決定的な企画を持っていた。彼は世界と人類の歴史を書こうと欲したのではなく、人類救拯(きゅうじょう)の歴史を保存しようと意図したのであった。彼の目的はいかにヤハウェが人類の救いのために、彼の民を選び、聖別して自らを啓示しようとせられたかを語るにあった」(3ページ)と述べています。
「統一原理」が主張するように、創世記に書かれた歴史は、復帰摂理がどのようになされていくのか、それを人類に教えるための中心史料であり、そこには神のメッセージが込められているのです。
創世記には不可解な内容も数多く登場しますが、特に創世記のポイントとなるアダム家庭、ノア家庭、アブラハム・イサク・ヤコブらの物語が何を意味しているのか、を知ることは重要だと言わざるを得ません。次回から本論に入っていくことにします。
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次回は、「創世記第1章[1]創世記に対する解釈の相違」をお届けします。