2022.05.01 22:00
創世記は神様の“編纂”
太田 朝久
太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。
キリスト教は基本的に神との直接性を排除し、聖書の言葉そのものを通してしか、神や真理に通じる道がないと考える傾向性を持っています。本当はその啓示を神から直接受けた人物がおり、そこから聖書の言葉ができ上がったはずなのですが、しかしそれでも神への直接性を認めようとはしません。
原理は聖書解釈に“復帰”の概念用いる
やがて聖書の言葉が、通俗の歴史観や倫理観などの日常的な情報によって相対化されていってしまうその結果、キリスト教信仰の衰退化が生じているのです。
キリスト教が徐々に相対化されていくこの問題を、「統一原理」はどのように解決しているでしょうか。いったい何を根拠に「統一原理」は、旧約聖書の言葉を神の啓示だと証明しているのでしょうか。実は「統一原理」が聖書を解釈するときに、そこへ“復帰”という概念を当てはめながら解釈しています。そこにこそ優れた観点があるのです。
――キリスト教は十字架こそが救済であると考える宗教です。十字架以後の歴史を、いまだ果たされていない救いを実現するための摂理として理解することは基本的にありません。キリスト教の歴史観は“退化論”であって、アダムの時が最も神に近く、堕落後、急速に悪くなって神から遠ざかり、最も神に反逆(離反)した最悪の時が終末であり、最後の審判が行われるというのです。
一方「統一原理」は、人類歴史を、神の創造目的を再び実現しようとする“復帰歴史”と捉えており、ゆえにアダム家庭の摂理が失敗し、神の基台の全く無くなった時が、人間が神に最も遠い時であり、ノア、アブラハム、モーセの時代を経るにしたがって徐々に回復し、イエスを迎えた時が最も神に近づいた時だと考えています。
ところが十字架によって復帰の目的が完全には果たせなかったので、2000年のキリスト教史は延長摂理として、イスラエル史の繰り返し現象が起こり、近世には“三大祝福の復帰現象”も見られると主張します。したがってキリスト教の退化論と、「統一原理」の復帰という概念は、全く正反対の歴史観であると言えます。キリスト教は、十字架を“救いの成就”と考えているのですから、「統一原理」の十字架以降のキリスト教史をも延長摂理と解釈する“復帰”の概念を、激しく否定し、攻撃してくるであろうことを、私たちは知っていなければなりません。
旧約聖書は信頼すべき神の啓示
キリスト教が出版している「聖書注解書」を見ると、例えば世界的に著名なフォン・ラートの『創世記注解』(ATD)は、創世記を単に資料の集合体として取り扱っています。しかし創世記が神の特別な計らいの中で、最終的に今日のかたちへと編纂(へんさん)されたことを思いつつ見なければなりません。現在ある創世記は、一つの完結した書物になっているのであり、それを通して、神がわれわれに語りかけているということを知らなければならないでしょう。
そこで主張しておきたいことは、「統一原理」による聖書解釈の優れた点についてです。まず、1. 創世記の内容(アダムからヨセフまで)を、実際の歴史(キリスト教史とイスラエル史)に、歴史の同時性として連結させたことです。これによって創世記が単なる神話ではなく、神が人類救済のために与えた“啓示”であり、サタン屈伏の典型路程を知らせるための中心史料であったことを立証しています。
次に、2. 旧約聖書の中心人物が、復帰の原則どおり「信仰基台」と「実体基台」を立てるという道を開拓したことを一貫性をもって解明しており、特にサタン屈伏の典型路程の象徴路程をヤコブ、形象路程をモーセ、実体路程をイエスが歩んだことを統一的に論証することによって、聖書が全ての人の信仰路程の“生きた教訓”であることを実感させてくれることです。
少なくとも以上の2点によって、旧約聖書が単なる神話や文学的虚構ではなく、信奉、信頼すべき神の啓示であることを実証しているのです。これによって旧約聖書に対する「霊感説」が否定される現象を、根本的に食い止めているのです。
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次回は、「選民史は復帰摂理の中心史」をお届けします。